玉勝間 / 六の巻 南殿の御階の桜橘
歷代編年集成云、南殿櫻樹者、本是梅樹也。桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也。今度燒亡燒失畢、造內裏之時、所被移李部王(重明親王)家櫻樹也。件樹、本吉野山櫻云云、但拾遺公忠朝臣哥詞、延喜御時、見南殿花云云、然者天德以前櫻樹歟、梅櫻事、時可決之、橘、樹者、本自所生託也。遷都以前、此地橘大夫家之跡也云云。南殿樹事、番記錄云村上御宇、天德三年十二月七日、南殿坤角、新移栽橘樹一本、(高一丈二尺、)件樹、彈正尹親王東三條家樹也、依勅定奉之、右近將監已下掘之、或記云、彼樹在所、稱橘大夫者家後園也、遷都之時、件後園有橘、即南殿前、以賞翫、其後回祿之後、被栽彼東三條樹云云、小一條左大臣記云、橘本主、秦保國也。と見えたり。今度燒亡とあるは、天德三年の燒亡のことなり。大槐秘抄ニ云〃、南殿の橘の木は、此京に、いまだ内裏たてられ候はざりけるさき、人の家の候けるが木にて候ければ、きられずしてなん候ける。殿上人は、南殿のおほゆかにて、枝ながらたちばな喰ひなどしけりと申候は、それはまことにや候けん。木は一定のふる木になんさぶらひける。ついでに、同書に云はく、今の上達部は、封戶すこしも得候はず。
新字:歴代編年集成云、南殿桜樹者、本是梅樹也。桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也。今度焼亡焼失畢、造内裏之時、所被移李部王(重明親王)家桜樹也。件樹、本吉野山桜云云、但拾遺公忠朝臣歌詞、延喜御時、見南殿花云云、然者天徳以前桜樹歟、梅桜事、時可決之、橘、樹者、本自所生託也。遷都以前、此地橘大夫家之跡也云云。南殿樹事、番記録云村上御宇、天徳三年十二月七日、南殿坤角、新移栽橘樹一本、(高一丈二尺、)件樹、弾正尹親王東三条家樹也、依勅定奉之、右近将監已下掘之、或記云、彼樹在所、称橘大夫者家後園也、遷都之時、件後園有橘、即南殿前、以賞翫、其後回禄之後、被栽彼東三条樹云云、小一条左大臣記云、橘本主、秦保国也。と見えたり。今度焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のことなり。大槐秘抄ニ云〃、南殿の橘の木は、此京に、いまだ内裏たてられ候はざりけるさき、人の家の候けるが木にて候ければ、きられずしてなん候ける。殿上人は、南殿のおほゆかにて、枝ながらたちばな喰ひなどしけりと申候は、それはまことにや候けん。木は一定のふる木になんさぶらひける。ついでに、同書に云はく、今の上達部は、封戸すこしも得候はず。
書き下し
歴代編年集成に云う、南殿の桜樹は、本これ梅樹なり。桓武天皇遷都の時、植えらるる所なり。而るに承和年中に及びて枯れ失す。仍りて仁明天皇改め植えらるるなり。今度の焼亡に焼失し畢んぬ。内裏を造るの時、李部王(重明親王)の家の桜樹を移さるる所なり。件の樹は、本吉野山の桜と云云。但し拾遺の公忠朝臣の歌の詞に、延喜の御時、南殿の花を見ると云云。然れば天徳以前も桜樹か。梅桜の事、時にこれを決すべし。橘の樹は、本より生い託する所なり。遷都以前、この地は橘大夫の家の跡なりと云云。南殿の樹の事、番記録に云う、村上の御宇、天徳三年十二月七日、南殿の坤の角に、新たに橘の樹一本を移し栽う(高さ一丈二尺)。件の樹は、弾正尹親王の東三条の家の樹なり。勅定に依りてこれを奉る。右近将監已下これを掘る。或る記に云う、かの樹の在所は、橘大夫と称する者の家の後園なり。遷都の時、件の後園に橘有り、即ち南殿の前、以て賞翫す。その後回禄の後、かの東三条の樹を栽えらると云云。小一条左大臣の記に云う、橘の本主は、秦保国なり、と見えたり。今度焼亡とあるは、天徳三年の焼亡のことなり。大槐秘抄に云わく、南殿の橘の木は、この京に、いまだ内裏たてられ候わざりけるさき、人の家の候いけるが木にて候いければ、きられずしてなん候いける。殿上人は、南殿のおおゆかにて、枝ながらたちばな食いなどしけりと申し候うは、それはまことにや候いけん。木は一定のふる木になんさぶらいける。ついでに、同書に云わく、今の上達部は、封戸すこしも得候わず。
現代語訳
歴代編年集成にいう。南殿(紫宸殿)の桜の木は、もとは梅の木であった。桓武天皇が遷都したときに植えられたものである。ところが承和年間に枯れてしまった。そこで仁明天皇が改めて植えられたのである。今度の火災で焼失してしまった。内裏を造営したとき、李部王(重明親王)の家の桜の木を移されたのである。その木は、もとは吉野山の桜だという。ただし拾遺集の公忠朝臣(源公忠)の歌の詞書に「延喜の御代に、南殿の花を見て」とある。そうだとすれば天徳以前から桜の木だったのか。梅か桜かのことは、いずれ決着をつけるべきである。橘の木は、もとからそこに生えていたものである。遷都以前、この地は橘大夫の家の跡だったという。南殿の木のことについて、番記録にいう。村上天皇の御代、天徳三年十二月七日、南殿の南西の角に、新たに橘の木を一本移し植えた(高さ一丈二尺)。その木は弾正尹親王の東三条の家の木である。勅命によってこれを献上した。右近将監以下の者がこれを掘った。ある記にいう。あの木のあった所は、橘大夫と称する者の家の裏庭である。遷都のとき、その裏庭に橘があり、そのまま南殿の前の木として賞翫した。その後、火災の後に、あの東三条の家の木を植えられた、云々。小一条左大臣(藤原師尹)の記にいう、橘のもとの持ち主は秦保国である、と見えている。「今度の焼亡」とあるのは、天徳三年の火災のことである。大槐秘抄にいう。南殿の橘の木は、この京にまだ内裏が建てられていなかった以前に、人の家にあった木であったので、切られずに残されたのである。殿上人は南殿の大床で、枝についたまま橘の実を食べたりしたと申すのは、それは本当のことであろう。木はたしかに古い木であった。ついでに、同じ書にいうには、今の上達部は封戸を少しも得ておらず、(と続く)。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 南殿続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
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『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
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『玉勝間』六の巻 花のさだめ花はさくら。桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐうべき物も無く、うき世のものとも思われず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり。大かた山ざくらと云う中にも、しなじなの有りて、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかわれる処有りて、またく同じきは無きようなり。また今の世に、桐がやつ八重一重など云うも、ようかわりて、いとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、あおやかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空清くはれたる日、日影のさすかたより見たるは、においこよなくて、おなじ花とも覚えぬまでなん。朝日はさらなり、夕ばえも。梅は紅梅、ひらけさしたる程ぞ、いとめでたきを、盛りになるままに、ようようしらけゆきて、見所無くなるこそ、いとくちおしけれ。さくらの咲ける頃までも、散る事知らで、むげに匂い無く、ねびれしぼみて、残りたるを見れば、げに有りて世の中は、何事も皆かくこそと、見る春ごとに、思い知らるかし。白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり。
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『玉勝間』十二の巻 深草ノ天皇の御事嘉祥三年三月廿一日、仁明天皇崩れ坐しぬ。文徳天皇実録三に、仁寿元年(嘉祥四年なり)三月癸酉朔壬午、右大臣藤原朝臣良房、東都の第に於て、知行の名僧を延屈し、先皇の奉為に、法華経を講ず、往年先皇大臣の家園の桜樹甚だ美なりと聞くこと有り、戯れに大臣に許すに、明年の春を以て、その花を翫ぶこと有らんと、俄かにして仙駕化し去りて、遊賞を遂げず、春来たりて花発くに属りて、大臣恨みて曰く、先皇の期したまいし所の春は、今日是れなり、春来たりて期に依れども、仙去りて帰らず、花は是にして人は非なり、悲しみに堪うべからず、と、道俗の会する者、これが為に涕を流さざるは莫く、公卿大夫、或いは詩を賦して懐いを述べ、或いは歌に和して逝けるを歎く。
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『玉勝間』四の巻 桜を花と云ふ事ただ花と云いて桜の事にするは、古今集の頃までは、聞こえぬ事なり。契沖ほうしが余材抄に、委しく云えるが如し。源氏物語若菜の上の巻に、梅の事を云うとて、花のさかりにならべて見ばやと云える事あり、是れらはまさしく桜を分けて花と云えり。
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『玉勝間』八の巻 続木同じ記に、寛喜二年三月七日、両株の八重桜(一条殿の枝の続木)花漸く開く、永日徒然、菊の苗を分け栽えしむ(草は土用を憚らず)、と見えたり。続木と云う事、此頃も早く有けり。
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