玉勝間 / 一の巻 天皇礼服御冠のさだ
同記云、仁治三年三月十日、御即位禮服御覽、去八日也、而御冠破損、無實、今日内內猶可有沙汰云、御冠堅固無實、金銅珠玉之類者、先年爲盜人被盜取歟、一切不見、只御冠羅少少許相殘、又珠玉少分落殘、不及其正躰之由、云云、仍申其由、此上難治事也、東大寺寶藏天子御冠二額相殘歟、若可模者、可被召出哉、年序久隔慥不覺悟、然而大旨者相似歟之由所覺也、云云、但佐保朝廷(聖武歟)禮冠圖、東大寺御納御冠之納物歟、同被下之間、於燈下見之、イトモ不覺悟之由所申也、前內府歸出仰云、東大寺御冠事、不思食寄之處、今令申旨、尤所感思食也、十四日、傳聞、一昨日右少辨時繼申拜賀、即向東大寺云、今朝已上洛云、御冠到來、但太上天皇御冠、井前帝御冠、不可被取入內裏歟、云云、就中以太上天皇御冠爲本樣、已被遣入道相國許云、此條殊驚聞、云云、所殘御冠、又有數頭、被取出之見給、又禮服御裳事被仰出、即被取出之、所殘之御裳、遣召內藏寮、暫祗候可見之由被仰、然而藏人佐云、於今者、女帝禮服、前皇后太子禮服、童帝者又短小之禮服許也、不及見歟云、十七日、云云御冠巳出來了、只今令〓云。
新字:同記云、仁治三年三月十日、御即位礼服御覧、去八日也、而御冠破損、無実、今日内内猶可有沙汰云、御冠堅固無実、金銅珠玉之類者、先年為盗人被盗取歟、一切不見、只御冠羅少少許相残、又珠玉少分落残、不及其正体之由、云云、仍申其由、此上難治事也、東大寺宝蔵天子御冠二額相残歟、若可模者、可被召出哉、年序久隔慥不覚悟、然而大旨者相似歟之由所覚也、云云、但佐保朝廷(聖武歟)礼冠図、東大寺御納御冠之納物歟、同被下之間、於灯下見之、イトモ不覚悟之由所申也、前内府帰出仰云、東大寺御冠事、不思食寄之処、今令申旨、尤所感思食也、十四日、伝聞、一昨日右少弁時継申拝賀、即向東大寺云、今朝已上洛云、御冠到来、但太上天皇御冠、井前帝御冠、不可被取入内裏歟、云云、就中以太上天皇御冠為本様、已被遣入道相国許云、此条殊驚聞、云云、所残御冠、又有数頭、被取出之見給、又礼服御裳事被仰出、即被取出之、所残之御裳、遣召内蔵寮、暫祗候可見之由被仰、然而蔵人佐云、於今者、女帝礼服、前皇后太子礼服、童帝者又短小之礼服許也、不及見歟云、十七日、云云御冠巳出来了、只今令〓云。
書き下し
同記に云う、仁治三年三月十日、御即位の礼服の御覧、去る八日なり、而るに御冠破損し、実無し、今日内々なお沙汰有るべしと云う、御冠堅固に実無し、金銅・珠玉の類は、先年盗人の為に盗み取らるるか、一切見えず、只御冠の羅少々許り相残り、また珠玉少分落ち残る、其の正躰に及ばざるの由、云々、仍て其の由を申す、此の上は治め難き事なり、東大寺の宝蔵に天子の御冠二額相残るか、若し模すべくば、召し出さるべきか、年序久しく隔たり慥かに覚悟せず、然れども大旨は相似たるかの由覚ゆる所なり、云々、但し佐保朝廷(聖武か)の礼冠の図、東大寺に御納めの御冠の納物か、同じく之を下さるるの間、燈下に於いて之を見る、イトモ覚悟せざるの由申す所なり、前内府帰り出でて仰せて云う、東大寺の御冠の事、思し食し寄らざるの処、今申さしむる旨、尤も感じ思し食す所なり、十四日、伝え聞く、一昨日右少弁時継拝賀を申し、即ち東大寺に向かうと云う、今朝已に上洛すと云う、御冠到来す、但し太上天皇の御冠、并びに前帝の御冠、内裏に取り入れらるべからざるか、云々、就中太上天皇の御冠を以て本様と為し、已に入道相国の許に遣わさると云う、此の条殊に驚き聞く、云々、残る所の御冠、また数頭有り、之を取り出して見給わる、また礼服の御裳の事仰せ出さる、即ち之を取り出さる、残る所の御裳、内蔵寮を召し遣わし、暫く祗候して見るべきの由仰せらる、然れども蔵人佐云う、今に於いては、女帝の礼服、前皇后・太子の礼服、童帝はまた短小の礼服許りなり、見るに及ばざるかと云う、十七日、云々御冠已に出で来たり了んぬ、只今〓せしむと云う。
現代語訳
同じ日記にこうある。「仁治三年三月十日。ご即位の礼服のご覧は去る八日であった。ところが御冠が破損していて形をなしていない。今日内々になお処置があるべきだという。御冠はまったく形をなしていない。金銅や珠玉の類は、先年盗人に盗み取られたのであろうか、一切見えない。ただ御冠の羅(薄絹)が少しばかり残り、また珠玉がわずかに落ち残っているだけで、元の姿には及ばないという。そこでそのことを申し上げた。こうなっては手の施しようがない。東大寺の宝蔵に天子の御冠が二つ残っているのではないか。もし手本にすべきなら、召し出されてはどうか。年月が久しく隔たっていて確かには覚えていないが、おおよその形は似ていたと記憶している、と申した。ただし佐保の朝廷(聖武天皇か)の礼冠の図が、東大寺に納められた御冠の添え物であろうか、同じく下されたので、灯火の下でこれを見た。ほとんど見覚えがない、と申し上げた。前内大臣が戻ってきて仰せられるには、東大寺の御冠のことは思いも寄らなかったが、今申し出たことは、まことに感心に思し召される、とのことであった。十四日。伝え聞くところでは、一昨日、右少弁時継が拝賀を申して、すぐに東大寺に向かったという。今朝もう上洛したという。御冠が到着した。ただし太上天皇の御冠と前帝の御冠は、内裏に取り入れるべきではないのではないか、という。とりわけ太上天皇の御冠を手本として、すでに入道相国のもとに遣わされたという。このことはことに驚いて聞いた。残りの御冠もまだ数頭あり、これを取り出してご覧になった。また礼服の御裳のことを仰せ出され、すぐに取り出された。残りの御裳について、内蔵寮の者を召し寄せ、しばらく控えて見るようにと仰せられた。しかし蔵人佐が言うには、今となっては、女帝の礼服、前の皇后・皇太子の礼服で、童帝のものはまた短く小さい礼服ばかりなので、見るには及ばないだろう、という。十七日。御冠はもう出来上がった。ただ今……させたという。」
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第その後大しょうじのひんがしに、ひらしきの御座に、うげん二帖のうえに、御しとねよそいて、このうえにてわきの御膳などまいらす。御ばいぜんは女房、やくそうの女房は、こ上臈、あした所の北むきに、北にさぶらう。ぶぎょうのしきじを出だして、高御座の事はぐしたるかと、おおせくださるれば、しきじかえりまいりて、ぐしたるよし奏す。ひらしきの御座にて、御束帯ときくつろげさせおわしまして、玉の御かぶりめさる。らいふくめされて、大床子に主上わたらせおわします。玉の御かぶりに、あけのおをつく。あけの御ほうに、左右の御かたは、月と日とを出だし、御なおしには、北斗七星をあらわしたてまつる。御むね御袖には、竜ののぼりたるをぬいたり、あられじの御うえのはかまのうえに、らいふくの御もを召す。そのうえに御大そでの御ほうを召す。御くびがみ御まえもなり。そのうえにたかくびの御小袖の御ほうを召す。このいろいろの御もんは、御小袖の御ほうにあらわして、うえに召したり。あかじの錦の御しとうず、はながたのうらの御くつ、あかじのにしきにてつつみたり。御こしには御じゅとて、ひらおのしろきを引かせ給いたり。
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『玉勝間』七の巻 御即位親王代礼服実躬卿記(一名先人記)に云う、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴れ風静かなり、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁なり、)実躬右の親王代に定めらるるの間、巳の剋礼服を着る、先ず烏帽子を着て、理髪す、(小烏帽子なり、随身の烏帽子のごときなり、)次に大口を着る、(例の大口なり、)次に襪を着る、(例の襪二重、上に赤地の錦の襪を着るなり、休組有るべきか、或いはまた之無し、)次に単衣を着る、(例の単、袖を解き放つ、強ちに見えざるの上、小袖の寸法大小の間、無要たるに依るなり、)次に表袴を着る(唐綾を用うべきか、近代絶えてこの儀無し、仍りて例の縮線綾の表袴を着用する所なり、左の親王代もまたかくのごとし、表袴・大口等の腰、恒のごとく之を結ぶ、)次に裳を着る、(深色の顕文紗、表袴より三寸引き上げて之を着る、)次に小袖を着る、(黒櫨、裳より三寸引き上げて之を着る、下帯を以て之を結ぶ、)次に大袖を着る、(麹塵の御綾、織文は雲・唐鳥の丸、小袖より三寸引き上げて之を着る、下帯を以てまた之を結ぶ、大袖の頸紙半ばに当てて之を折る、承久の故大納言の着用かくのごとし、)次に綬を結ぶ、(平緒のごとく前に垂る、総の末は大袖の末の上程に至る、平緒に綬を垂るるの間かくのごとし、経俊は左の腰に垂れ、聊か前方に寄す、総の末は小袖の末に至る、)次に玉佩を付く、(右の腰に付け、下帯に付けて結び付くるがごとし、その末の綴は未だ押し交えず、)次に剣を帯ぶ、(紫檀の平緒、前に垂るる綬少し長く之を垂る、石見より一寸余出だす、後は平緒の下より一寸余出だし見す、)次に玉冠を着る、(冠は頭に合わせて之を調う、仍りて燈心の輪頗る無要の間之を入れず、紫の組緒を耳の後より頸の下に結ぶ、また小さき烏帽子の風口を構う、これ今の要なり、承久の故大納言は里亭より之を着る、)次に笏を取る(須らく牙笏を持つべし、次いでにて持つべからざるの間、置物を以て之に化す、)扇、(紫の扇なり、用意の為に之を懐中す、)已上玉佩の外悉く之を新調すと見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所々有り。
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『玉勝間』二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左右の御うしろの御わきのとおりに、たんじゅとて、二すじ御よおろの程に下げられたり。御まえの左右の御わきに、ぎょくはいとて、玉をつらぬきて、つけられたり。御すそに、ひうちがたのからかねをつけられたれば、ふけんのごとくに、りやらめきならせ給う。御まえには、大じゅをむすび下げられたり。たちのひらおのごとく、むすびたれたり。高御座の事ぐしたるよし、しきじ申せば、やがて行幸あり。ぎょけんはこうとう給わる。璽はこれのやくなり。右の御わきにまいる。殿下のおおせに、そのしるしの御はこのうえにかけたるあみを、ゆびにかけつれば、とりはずし、あやまちはせぬぞとおおせあるに、御なさけの有りがたく、心もつよつよしくおぼえて、あやまち無し。高御座へ事ゆえなく参りつきぬ。とばりあげの役は、はくの三位のむすめなり。みょうぶ蔵人四人、やくの内侍六人、うらこきそおうこきもののぐ、行幸たか御くらへなれば、御さきのみょうぶ四人、御さきに立つ。その後かみあげの内侍二人、二行にならびて参る。たか御くらの御はしの左右に、ないしたちとまれば、殿下御簾のやくにまいり給いぬ。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第事しずまりて、みなみをはるかに見やれば、せちげのはた立てて、風にひらめきて立ちたり。大きなるこうばんに、みょうごうやにおうらんと見えたり。こがねのたからすとて、あしの三あるとり見ゆ。しんこんたけうのなかには、日の中に、さんぞくのからすあり、月の中には、ろくそくのうさぎありと聞きしも、ほんせちある事なりけりと、信おこりておぼえて、から人のすがたどもなみたちて、はいし奉るに、身のけも立ち、涙ぐましく、めでたくうれし。右大臣殿からめかしき御すがたにて、まくのうちよりねりいで給えば、ぎょくはいのおとかや、みちにりやらめきて、びびしく、御たけのたかさ、御てんのたかさにもたちおとり給わず。たか御くらにむきてはいし給うを、見るにもめでたく侍る。「ためしなきここちこそすれ君が代のかかるみゆきにきょうつかえつる、と思いつづけたれども、うちまぎれぬ。ようようたいれいのぎどももはてぬれば、殿たか御くらへのぼり給う。あした所へかえり入らせおわします。御けんしるしの御はこなど、もとのごとくつとむ。主上御しょうぞくめしあらためて、かんぎょのぎになるほどに、この御やすまくへいらせ給いぬ。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左の内侍まづのぼりて、左の御わきより、御けんをまいらせおく。御はしをしりぞきて、右のしもに内侍の座につきぬ。女王のしょうぞく、二色くれないのひとえ、そおうのうわぎ、あかいろのからぎぬ、かみあげの内侍は、勾当とこれ新内侍なり。御ぜんの命婦、みあれ、いつぬき、宮人、いしかわ、いぎの命婦、ははき、さぬき、ひぜん、たましき、これみなうらこきそおう、やなぎのからぎぬなり。こしょうの命婦、右衛門督殿(やなぎにくれないのひとえ、こうばいのうわぎ、)新左衛門督殿(もえぎにくれないのひとえ、山ぶきのうわぎ、)新宰相殿(むらさきうすように、しろきひとえ、山ぶきのうわぎ、もえぎのからぎぬ、)宮内卿殿(新宰相殿に同じ、)治部卿殿(紫のうすように、もえぎのうわぎ、えびぞめのからぎぬ、)少将内侍、少輔内侍(まつがさねに紅のひとえ、やなぎのからぎぬおなじ、)つねの衣のうえに、かいふにからぎぬ、こうけつの衣、ひらびたいなり。ぎょうれつのあいだの事、みさきにいぎの命婦四人、(えんどうの左右につづけり、)しょうちょうの左につく。つぎにけんしの内侍二人、(左こうとう、右はこれなり、)こしょうの女房、御うしろにあゆみつづきてまいる。
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