玉勝間 / 四の巻 天皇御院号の事
土御門ノ内大臣通親公の、高倉院升遐ノ記に云はく、そのゆふべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに殘り云云、と有り。後陽成天皇、元和三年八月廿六日にかくれさせ給ひて、御はふりの事、日を擇はれて、九月廿日とさだまる。そのほどは、もとの御所におはしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華經を讀む。朝には御手洗まゐり、御膳など常のごとく奉る。御院號の事、家家へ仰られたる中に、殿下よりかむかへて奉り給へるに定められて、後陽成院と號し奉り、廿日に泉涌寺にして火葬し奉る。此御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院ノ時慶ノ卿の書かれたる、升遐ノ記に見えたり。
新字:土御門ノ内大臣通親公の、高倉院升遐ノ記に云はく、そのゆふべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云云、と有り。後陽成天皇、元和三年八月廿六日にかくれさせ給ひて、御はふりの事、日を択はれて、九月廿日とさだまる。そのほどは、もとの御所におはしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まゐり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家家へ仰られたる中に、殿下よりかむかへて奉り給へるに定められて、後陽成院と号し奉り、廿日に泉涌寺にして火葬し奉る。此御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院ノ時慶ノ卿の書かれたる、升遐ノ記に見えたり。
書き下し
土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
現代語訳
土御門内大臣通親公(源通親)の「高倉院升遐記」に言うには、「その夕方、六波羅から清閑寺にお移し申し上げた。殿上でまず追号のお定めがあるにつけても、高倉とはどういう大路であって、つらい名が御形見に残ることか」云々とある。後陽成天皇は元和三年(1617年)八月二十六日にお隠れになって、御葬送の事は日を選ばれて九月二十日と定まった。その間は元の御所にいらっしゃって、御前の僧が夜通しひそかに法華経を読む。朝には御手水を差し上げ、御膳なども普段どおり奉る。院号の事は諸家へお命じになった中で、殿下(関白)が考えて奉られたものに定められて、後陽成院とお号し申し上げ、二十日に泉涌寺で火葬し申し上げた。この事は、御病気の頃から御葬送まで、西洞院時慶卿の書かれた「升遐記」に見える。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 後陽成天皇の御院号の事後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬礼の事、日をえらびて、九月廿日と定めらる。そのほどは、もとの御所におわしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華経を読誦す。朝には御手洗まいり、御膳つねの如く奉る。御院号の事、諸家へ仰せ出ださるるその中に、殿下より勘進せらるるを定められて、後陽成院と号し奉る。さて廿日御葬礼、泉涌寺にて御火葬なり。御悩の程よりこれまでの御事、西洞院の時慶の卿のしるされたる、昇遐の記に見えたり。
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『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
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『玉勝間』一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
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『玉勝間』三の巻 後柏原天皇崩御御入棺の儀同記に云う、大永六年四月十一日、天晴る、戌の刻御入棺の事有り、(御棺は雲龍院より沙汰するなり。)是より先に御沐浴の儀有り云云(僧衆の沙汰たるの間、見奉らず。)範久朝臣御服を取り(御直衣・御袴・御袷・御念珠・御血脉等、各御菌に居う、)一一之を授く、(御冠・御枕は、本より玉体に副う。)等長老に授く、(泉涌寺)長老取りて御棺に入れ奉る与。此の如き儀、一円に僧衆の行事たるの間、之を見ず、頃くして事調うるの由之を示す、仍て御膳の事を催す。頭弁資定朝臣参進し、御膳を供す。(是より先に橋以て案二脚を御前に結い置き、御膳の料に備うるなり。)菅少納言長淳(衣冠)役送す、五前次第、(第一第二御飯、第三、第四、第五菓子、)供し了りて即ち之を撤す、此の後御手水を供す。(根手洗・御手揮等、緒を以て持参す、)長淳に授く、資定朝臣先ず御手洗を取り、御前に置く、(北面なり、先例は西南を以て御前と為すか、然れども此の記録所、御座分只一間なり、狭少たるの間、北面と為す、)御屏風を立つ、次に橡を取り(兼ねて蓋を撤す、)水を入る、(二三度、其の由ばかりなり、)次に御手拭を取り、御手洗の端に懸け、則ち之を撒す、長淳之を取り、授くるに〓を以てす云云。
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『玉勝間』五の巻 太上皇の御灸治土御門の内大臣通親公の書き給える、厳島御幸の道の記に、御幸かえらせ給いて後の所に云わく、かくて御痩せもただならずなど聞えて、くすしども申しすすめて、御きゅうじなどぞきこえし、と有り。帝の御灸治めずらし。
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『玉勝間』四の巻 土御門ノ内裏土御門の内裏は、土御門の南、烏丸の西と、拾芥抄に見えたり。ある書に、光厳院より、後奈良院まで、この内裏にましませりと云えり。明応凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車の路次、正親町を西に行き、室町を南に行き、近衛を東に行く云々と見え、また二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如くなり。然ればそのころは、北へ広かりて、一条の南づらまでも、内裏なりしにや。さる故にその西表の御門、正親町に有りて、それより出で給いしなるべし。また同じ帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有りしよしなり。されば御所は時々にすこしずつ地かわりて、ここかしこに有りしかども、皆同じ廓の内にてぞ有りつらん。さて今の内裏は、正親町院の御世、信長公・秀吉公などの時に、造営せられし地なるべし。これも土御門の内裏の外廓の、ようように東へ北へ広くなりて、今の世の外廓とはなれりとおぼしければ、なお同じ廓の内なり。さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御証にもつけ奉られたるにやと、これも或る人云えり。中原の康富の記に、文安元年九月二十八日云々、去年九月二十三日炎上せし内裏の御門四足、(土御門東洞院の面、左衛門陣と号す、)云々。文安は、後花園の天皇の御世なり。
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