玉勝間 / 十三の巻 臣の王を娶る事
記略に、延曆十二年九月丙戌の詔に、見任大臣、良家子孫、許娶三世以下、但藤原氏者、累代相承、攝政不絕、以此論之、不可因等、殊可聽娶二世以下者と見えたり。そもそも古、は、皇女はさらにも申さず、すべて臣の、王の女を娶ることは、ゆるされぬ事にて、さる事かつて無かりしを、繼嗣令に、臣娶五世王者聽とあるは、令の時、始めての御制にや有けむ。そのかみ萬の事、さしも漢風にうつされしかども、これらはさすがに、人ノ情の安からざる事なれば、延曆の頃になりてすら、なほ上ノ件の如くなりけらし。令のかの同じつづきに、王娶親王、唯五世王、不得娶親王とも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶しを、臣は、そのかみわづかに、五世ノ女王を娶ることをゆるされしを以て、王と臣と、すぢの尊き卑きけぢめ、嚴なりしことを知べし。夫婦のむすびをなすことも、尊き卑きけぢめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸に漢風にうつりはてて、つひに今の如くには成りぬるなり。世の人ただ、同姓不娶など云ふ、漢風の事をのみ、思ひ云ひて、皇國の古、に、かばかり尊き卑きけぢめを分けし事をば、知らざめる故に、今いささかおどろかすなり。
新字:記略に、延暦十二年九月丙戌の詔に、見任大臣、良家子孫、許娶三世以下、但藤原氏者、累代相承、摂政不絶、以此論之、不可因等、殊可聴娶二世以下者と見えたり。そもそも古、は、皇女はさらにも申さず、すべて臣の、王の女を娶ることは、ゆるされぬ事にて、さる事かつて無かりしを、継嗣令に、臣娶五世王者聴とあるは、令の時、始めての御制にや有けむ。そのかみ万の事、さしも漢風にうつされしかども、これらはさすがに、人ノ情の安からざる事なれば、延暦の頃になりてすら、なほ上ノ件の如くなりけらし。令のかの同じつづきに、王娶親王、唯五世王、不得娶親王とも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶しを、臣は、そのかみわづかに、五世ノ女王を娶ることをゆるされしを以て、王と臣と、すぢの尊き卑きけぢめ、厳なりしことを知べし。夫婦のむすびをなすことも、尊き卑きけぢめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸に漢風にうつりはてて、つひに今の如くには成りぬるなり。世の人ただ、同姓不娶など云ふ、漢風の事をのみ、思ひ云ひて、皇国の古、に、かばかり尊き卑きけぢめを分けし事をば、知らざめる故に、今いささかおどろかすなり。
書き下し
記略に、延暦十二年九月丙戌の詔に、見任の大臣、良家の子孫、三世以下を娶るを許す、但し藤原氏は、累代相承けて、摂政絶えず、此を以てこれを論ずれば、等しきに因るべからず、殊に二世以下を娶るを聴すべしと見えたり。そもそも古は、皇女はさらにも申さず、すべて臣の、王の女を娶ることは、ゆるされぬ事にて、さる事かつて無かりしを、継嗣令に、臣五世の王を娶るは聴すとあるは、令の時、始めての御制にや有りけむ。そのかみ万の事、さしも漢風にうつされしかども、これらはさすがに、人の情の安からざる事なれば、延暦の頃になりてすら、なお上の件の如くなりけらし。令のかの同じつづきに、王は親王を娶り、ただ五世の王は、親王を娶るを得ずとも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶りしを、臣は、そのかみわずかに、五世の女王を娶ることをゆるされしを以て、王と臣と、すじの尊き卑しきけじめ、厳なりしことを知るべし。夫婦のむすびをなすことも、尊き卑しきけじめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸に漢風にうつりはてて、ついに今の如くには成りぬるなり。世の人ただ、同姓娶らずなど云う、漢風の事をのみ、思い云いて、皇国の古に、かばかり尊き卑しきけじめを分けし事をば、知らざめる故に、今いささかおどろかすなり。
現代語訳
『日本紀略』に、延暦十二年九月丙戌の詔として、「現職の大臣と良家の子孫には、三世以下の女王を娶ることを許す。ただし藤原氏は代々受け継いで摂政が絶えないので、これによって論ずれば、他と同等に扱うべきではなく、特に二世以下の女王を娶ることを許す」と見えている。そもそも古には、皇女はいうまでもなく、およそ臣下が皇族の娘を娶ることは許されないことで、そのようなことはかつてなかったのに、継嗣令に「臣下が五世の女王を娶ることは許す」とあるのは、令の制定の時に初めて定められたものであったろうか。当時は万事をあれほど中国風に移したけれども、これらはさすがに人の心の落ち着かないことなので、延暦の頃になってさえ、なお先のようであったらしい。令の同じ条の続きに、「王は内親王を娶ってよい。ただし五世の王は内親王を娶ることはできない」とも見えて、諸王は四世までは皇女をも娶ったのに、臣下は当時わずかに五世の女王を娶ることを許されただけであったことから、王と臣下との血筋の尊卑の区別が厳格であったことを知るべきである。夫婦の縁を結ぶことについても、尊卑の区別がこれほど正しかったのに、その後は何事もみな、しだいに中国風に移り変わってしまって、ついに今のようになってしまったのである。世の人は「同姓は娶らない」などという中国風のことばかりを思ったり言ったりして、皇国の古に、これほど尊卑の区別を立てていたことを知らないようなので、今少し注意を促すのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 臣の王を娶る事かの漢国の王などは、もとよりすじ無き者には有れども、当時の王の女をも、むげにすじ無き男にもあわすなるは、あまりにわきため無く、みだりなる国俗にぞ有りける。
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『玉勝間』十三の巻 諸王の事継嗣令に云う、凡そ皇の兄弟皇子、(女帝の子もまた同じ)皆親王と為す、以外は並びに諸王と為す、親王より五世は、王の名を得と雖も、皇親の限りに在らず。文徳実録に云う、斉衡三年四月甲午、弾正台奏す。五世の王は、王号有りと雖も、皇親の限りに非ず、その朝服の色宜しく王臣の位階に依るべし、これに従う。三代実録に云う、貞観四年四月十二日、詔を下す、参議已上をして、各時政の是非を論じ、世俗の得失を詳らかにせしむ。云云、是より先諸王、二世より四世に至るまで、夏冬の衣服を賜う、人数を限らず、年の数符に随いて、多少を出だしてこれを賜う。或いは五六百人に至る、是の時簿に載せて官に進むる者、四百余人なり。豊前上疏して曰く。諸王の給服、人数定まらず、徒らに帑蔵を費やす、何ぞ紀極無き、望み請うらくは当時の所在を以て、定数と為し、闕くるに随いてこれを補い、転じて過ぐるを聴さざらんことを、これに従う。豊前とあるは、豊前王と云う人の名な又同十二年二月廿日、公卿奏して諸王の季禄を減じ、兼ねて給禄の定額を立てんことを請う日、云云、今府帑稍密にして貢職少なし、当に諸王の禄を停めて、救弊の計を存すべき者。云云、但し専らこれを停むれば則ち皇親を疎んずるに似たり、全くこれを給えば、則ち国用を闕くべし云云、又王氏蕃昌して、曩日に万倍す、その禄賜を計るに、費やす所支え難し、伏して望むらくは当時禄に預かる者、四百二十九人を、定員と為さんことを云云奏可す。また元慶四年十月廿七日、摂津国河辺郡の人、九世、従七位下川原公福貞云云等五戸の課条を免ず、福貞等白して言う、云云、謹んで天長九年十二月十五日の詔書を検ずるに夫れ王氏は、王号は五世に止まり、資蔭は六世を過ぎず、云云、宜しく七世以下、数を計りて五世に至らば、課役蠲除すべし、その既に姓を賜う者は、先後を論ぜず、一に王の蔭に依り、世を計りてこれを容るること亦この例に同じ者。云云、望み請うらくは、同じく蠲除せられんことを、これを許す。
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『直毘霊』古は古の定まりともすれば、古え兄弟まぐわいせしことを言い出でて、鳥獣の振る舞いぞと謗るを、此方の物知り人たちも、是をば心良からず、御国の飽かぬことに思いて、かにかくに言い紛らわしつつ、未だ定かに断り説くこともなきは、彼の聖人のさかしらを、必ず当然理と思いなずみて、猶彼に諂う心あるが故なり、もし諂う心しなくば、彼と同じからぬは、何事かあらん、抑皇国の古えは、唯同母兄弟をのみ嫌いて、異母の兄弟など御合い坐ししことは、天皇を始め奉りて、大方世の常にして、今京になりてのこなたまでも、すべて忌むことなかりき、但し貴き賤しき隔ては、うるわしく有りて、自ずから、淫りならざりけり、これぞこの神祖の定め賜える、正しき真の道なりける、然るを後世には、彼の唐国の定めを、いささかばかり守る気にて異母なるをも兄弟と言いて婚せぬことになも定まりぬる、されば今世にして、其を犯さんこそ悪しからめ、古えは古えの定まりにしあれば、異国の制を規として、論うべきことにあらず。
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『玉勝間』十三の巻 諸王の事件の天長九年の詔書には、王号乃ち五世に止まる、と有れども、続後紀、承和八年、十年十四年、嘉祥二年などのところに、六世某の王、七世某の王と云う名、多く見えたるは、いかなるにか。この事なおよく考うべし。
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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