玉勝間 / 十三の巻 女御
女御と云ふ班を確かに定められたるは、何れの御世の頃よりのことにか有りけむ。雄略天皇の御世の稚媛を、始と云ふは、ひがことなり。書紀の彼ノ御卷に女御とあるは、唯だ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ實に此號ありしにはあらず。すべて彼紀は、斯かる文字につきて後の人の思ひまどふ事多きぞかし。そもそも女御と云ふは、もと漢國にて、王の御す女をひろく云へる目にて、一つ定まれる號にはあらず。皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなには成れるなり。かの雄略紀なるも、唯だ御す女とし給へるよしなり。
新字:女御と云ふ班を確かに定められたるは、何れの御世の頃よりのことにか有りけむ。雄略天皇の御世の稚媛を、始と云ふは、ひがことなり。書紀の彼ノ御巻に女御とあるは、唯だ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ実に此号ありしにはあらず。すべて彼紀は、斯かる文字につきて後の人の思ひまどふ事多きぞかし。そもそも女御と云ふは、もと漢国にて、王の御す女をひろく云へる目にて、一つ定まれる号にはあらず。皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなには成れるなり。かの雄略紀なるも、唯だ御す女とし給へるよしなり。
書き下し
女御と云う班を確かに定められたるは、何れの御世の頃よりのことにか有りけむ。雄略天皇の御世の稚媛を、始めと云うは、ひがことなり。書紀のかの御巻に女御とあるは、ただ撰者の例の漢文にこそあれ、そのかみ実にこの号ありしにはあらず。すべてかの紀は、かかる文字につきて後の人の思いまどう事多きぞかし。そもそも女御と云うは、もと漢国にて、王の御す女をひろく云える目にて、一つ定まれる号にはあらず。皇朝にても、本は然なりしを、後に定まれるしなには成れるなり。かの雄略紀なるも、ただ御す女とし給えるよしなり。
現代語訳
女御という位をはっきり定められたのは、どの御代の頃からのことであったろうか。雄略天皇の御代の稚媛を始まりとするのは誤りである。『日本書紀』のその巻に「女御」とあるのは、ただ撰者のいつもの漢文の書き方であって、当時本当にこの称号があったのではない。およそあの『日本書紀』は、このような文字によって後の人が思い迷うことが多いのである。そもそも「女御」というのは、もとは中国で王のそばに仕える女性を広く言った名目で、一つに定まった称号ではない。わが朝廷でも、もとはそうだったのが、後に定まった身分の位となったのである。あの雄略紀のものも、ただ天皇のそばに仕える女性とされたという意味である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 むかしの女御の位階延喜天暦などの頃になりては、女御と申すは、皇后につぎて、いにしえの妃夫人などのつらに当たりて、いと貴かりしにあわせては、なお位階はひきくぞ有りけん。小野の宮の左大臣の御女の女御の、天暦元年にかくれ給えりし、四十九日の願文に、女御贈従四位上藤原朝臣とぞ見えたる、これらも文粋に有り。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』十三の巻 更衣同紀に承和九年正月丙申朔戊戌、天皇太上天皇及び、太皇太后宮に嵯峨院に朝覲す、云云、是の日、詔して従五位下秋篠朝臣康子に、正五位下、无位山田宿禰近子に、従五位上を授く、並びに太上天皇の更衣なり。と見ゆ。この更衣と云う物は、いずれの御代のころより有りそめけむ。物に見えたる事は、これ始めなり。そもそも後宮職員令には、妃二員、右四品以上。夫人三員、右三位以上。嬪四員、右五位以上。宮人と有るを、中昔よりこなたは、これらの号は絶えて、大かた妃夫人にあたる程なるをば、女御とし、嬪にあたる程なるをば、更衣とせらる。三代実録六の巻に光孝天皇の更衣と云うことも見え、また仁和三年には、勅す。更衣従五位上藤原朝臣元善を以て、女御と為す、中納言従三位山陰の女なりとも見えたり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『玉勝間』四の巻 女一宮女二宮など申す唱へ女一の宮・女二の宮など申す女の字、音に読みならえれども、栄華物語などに、男一の宮・男二の宮なども有る、男は音には読むべくも有らず、必ずおとこ一の宮などと読むべければ、女も古えはおんな一の宮、おんな二の宮などぞ読みつらむ。ことわりをもて思うにも、字音には読むまじき続きなり。
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『玉勝間』十四の巻 御の字御の字の事、もろこしにては、その国の王の事ならでは云わず。臣下に云える事無し。この字即ち王の事をさして云えるが如し。皇国にては、みと云うにこの字をあてたれど、御は天皇に限らず。もとより下々にても尊みて広く云う言なり。大御と云うぞ、大かた天皇に限りて云える。神に申すは、すべて神は天皇とひとしく、御妻を后、御行を幸と云う類なり。されば大御と云うは、もろこしの御の字のつかいざまに近し。さて後には大御を音便にオオンと云いて、天皇にかぎらず広く云う事となり。又その後には、そのオオンのオを省きて、オンと云い、後には又ンをも省きて、オとのみ云う。今の俗には物に書きては、御の字をオンと云えども、口語にはオとのみ云えり。稀れ稀れにオミ帯、オミ袷、オミ足など云う事の有るは、大御てふ古言の、たまたまに残れるなり。されどこはなべてにはわたらぬ事なり。
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