玉勝間 / 五の巻 立田山 小ぐらの峰
古へ大和より難波へもいづくへも下るに越し、立田山は、今のくらがり峠なり、と云ふ說の有るは、その名、萬葉九の卷に、小鞍嶺と有るに通ひ、又かの道ぞ、今の世にむねと越ゆる道なればなり。そのうへ其のあたりに、小倉寺村と云ふさへ有るなれば、さも有らんとは思はれながら、立田神社と、程のいと遠きは、心得ぬ事に覺えしに或る人の、立田山をぐらのみねは、くらがり越にはあらず、今の立野越なりと云ひ、又此頃、師のいせ物がたりの古意のしりに附ケたる、上田ノ秋成と云ふ人の考へにも、然か云ひて、そのよしを委しくわきまへたるは、まことに然る事とぞ思はるる。但し立田川と云へるをも、そこなる川なりと云へるは、たがへり。こは立田山のあたりの川とは、誰れもふと思ふべき事にて、昔よりみな然か心得來つれども、立田川と云ふ名は、萬葉の頃までには、歌にも何にも、見えたる事無くして今の京に成りての後の歌に、多く見えたれば、立田山とは異ところにして、大和ノ國にはあらず。此河の事は、すでに一の卷に、くはしく云へるが如し。
新字:古へ大和より難波へもいづくへも下るに越し、立田山は、今のくらがり峠なり、と云ふ説の有るは、その名、万葉九の巻に、小鞍嶺と有るに通ひ、又かの道ぞ、今の世にむねと越ゆる道なればなり。そのうへ其のあたりに、小倉寺村と云ふさへ有るなれば、さも有らんとは思はれながら、立田神社と、程のいと遠きは、心得ぬ事に覚えしに或る人の、立田山をぐらのみねは、くらがり越にはあらず、今の立野越なりと云ひ、又此頃、師のいせ物がたりの古意のしりに附ケたる、上田ノ秋成と云ふ人の考へにも、然か云ひて、そのよしを委しくわきまへたるは、まことに然る事とぞ思はるる。但し立田川と云へるをも、そこなる川なりと云へるは、たがへり。こは立田山のあたりの川とは、誰れもふと思ふべき事にて、昔よりみな然か心得来つれども、立田川と云ふ名は、万葉の頃までには、歌にも何にも、見えたる事無くして今の京に成りての後の歌に、多く見えたれば、立田山とは異ところにして、大和ノ国にはあらず。此河の事は、すでに一の巻に、くはしく云へるが如し。
書き下し
古え大和より難波へもいずくへも下るに越えし、立田山は、今のくらがり峠なり、と云う説の有るは、その名、万葉九の巻に、小鞍嶺と有るに通い、又かの道ぞ、今の世にむねと越ゆる道なればなり。そのうえそのあたりに、小倉寺村と云うさえ有るなれば、さも有らんとは思われながら、立田神社と、程のいと遠きは、心得ぬ事に覚えしに、或る人の、立田山おぐらのみねは、くらがり越にはあらず、今の立野越なりと云い、又この頃、師のいせ物がたりの古意のしりに附けたる、上田の秋成と云う人の考えにも、然か云いて、そのよしを委しくわきまえたるは、まことに然る事とぞ思わるる。但し立田川と云えるをも、そこなる川なりと云えるは、たがえり。こは立田山のあたりの川とは、誰もふと思うべき事にて、昔よりみな然か心得来つれども、立田川と云う名は、万葉の頃までには、歌にも何にも、見えたる事無くして、今の京に成りての後の歌に、多く見えたれば、立田山とは異ところにして、大和の国にはあらず。この河の事は、すでに一の巻に、くわしく云えるがごとし。
現代語訳
昔、大和から難波へもどこへも下るときに越えた立田山は、今の暗(くらがり)峠である、という説があるのは、その名が万葉集巻九に「小鞍嶺(おぐらのみね)」とあるのに通じ、またその道こそが今の世に主に越える道だからである。そのうえそのあたりに小倉寺村というのまであるのだから、そうでもあろうかとは思われながらも、立田神社とたいそう距離が遠いのは納得のいかないことに思っていたところ、ある人が「立田山の小鞍の嶺は暗越えではなく、今の立野越えである」と言い、また近ごろ、師(賀茂真淵)の『伊勢物語古意』の末尾に付けた上田秋成という人の考えにもそう言って、その理由を詳しく論じているのは、まことにそのとおりだと思われる。ただし立田川と言っているのも、そこにある川だと言っているのは間違っている。これは、立田山のあたりの川だと誰もがふと思うことで、昔からみなそう心得てきたけれども、立田川という名は、万葉集のころまでは歌にも何にも見えたことがなく、平安京になってから後の歌に多く見えるので、立田山とは別の場所であって、大和国ではない。この川のことは、すでに一の巻に詳しく言ったとおりである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 立田川たとい歌はひが心得して詠む事も有りとも、さる詞書までを作るべき物かは。そもそも大和の立田は、万葉集の歌に、十四五首も見えたれど、いづれもいづれも山をのみ詠みて、川を詠めるは一つも見えず。その外の古書にも、立田は山とのみこそ有れ、川はあること無し。立田川と詠めるは、みな今の京になりての歌にて、右に云う山崎のあなたなるなり。「もみじみだれて流るめり、の歌は、もしまことに奈良の帝の御(歌脱か)ならば、平城天皇なるべし。また「もみじ葉ながる神なびの、と云う歌は、飛鳥川と有るかた正しくて、大和なるべし。かの山崎のあなたなるは神なびとは云えど、みむろの山とは云うまじければなり。然るに拾遺集物の名の歌に、「神なびのみむろのきしやくづるらん立田の川の水のにごれる、と有るは、早くかの古今集の歌どもによりて、大和のとまぎれて、斯くは詠み合わせたんめり。その後々の歌どもはさらなり。
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『玉勝間』二の巻 又立田川立田川と云うは、前の巻にいえる如く、山崎川の事なるを、そは今いずれの川ならむ。かのわたりの事、よくも知らで、年ごろいぶかしかりつるを、ことし寛政五年三月、京より大坂に下れるかえるさまに、山ざきのきしに船よせておりて、そのあたり見めぐりて、この川をも尋ねけるに、大かた山崎よりあなたには、水無瀬川をおきては、川ひとつも無し。さてつらつら考うるに、水無瀬川と云うは、後の名にて、この河ぞ古の立田川なるべき。この川、山崎と水無瀬とのさかいにあり。山城の国と津の国との堺は、川よりすこしこなたにて、川は津の国島の上の郡になん有りける。今は狭き河なれど、かなたこなたの堤高くて、水はよろしきほどの流れなるを思うに、古はややひろく流れけむを、後に堤を高くつきて、今のごとせばくは成しつるなるべし。さて立田川に詠み合わせたる、神なび山神なびの杜は、神名帳なる、山城の国乙訓の郡、玉手より祭り来る酒解神社、(名神大月次新嘗)これを続後紀また臨時祭式などに、山崎の神ともあれば、この神社によりたる名にて、すなわち山崎山の事にぞあるべき。この社は、すなわち今の山崎天王なりとも云えり。
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『玉勝間』一の巻 立田川古今集秋下に、神なびの山を過ぎて、立田川を渡りける時に、紅葉の流れけるを詠める、「神なびの山を過ゆく秋なれば立田河にぞぬさはたむくる。この神なび山は、山城の国乙訓の郡にて、同集別の部に、山崎より神なびの森まで、おくりに人々まかりて云々、と有ると同じ所なり。さて源の重行集に、山崎川を立田川と云うを、筑紫へいくとて、「白浪の立田の河を出でしより後くやしきは船路なりけり、と有り。然れば立田川と云うも、山崎のあなた、津の国島上の郡にて、かの神なび山近き所にて、筑紫へ下る道なり。大和の国の立田とは別なり。然るを、神なび山と云うも、立田も、大和に名高くてある故に、昔より右の古今集なるをも、大和の国のとのみ思えり。契沖も然か心得て、神なび山は高市の郡、立田は平群の郡にて遥かにへだたれれば、その山の紅葉の、立田川に流るべきことわり無しと云いて疑いたり。されど詞書に、歌ぬしのみづから、その山を越え、その川を渡りて詠めると有れば、誤りとは云いがたし。然るを吾師は、もとよりかの歌をひがこととして、詞書をさえ、撰者の作れるがごとく云われたるは、云い過ごしなりけり。
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『玉勝間』二の巻 水無瀨川古にみなせ川と云いしは、一つの川の名には有らず、いずれにまれ、水の無き川と云う事にて、あるは砂の下を水はとおりて、うわべに水無き川をも云えり。万葉四に、「恋にもぞ人は死にする水瀬川下ゆわれ痩す月に日に気に、十一に、「こちたくは中はよどませ水無河たゆとうことをありこすなゆめ。また「うらぶれてものは思わじ水無瀬川有りても水はゆくちう物を。古今集恋二に「ことに出でて云わぬばかりぞみなせ川下に通いて恋しき物を。恋五に、「逢い見ねば恋こそまされ水無瀬河なににふかめて思いそめけむ。また「みなせ川有りてゆく水なくはこそつひに我身をたえぬと思わめなどある、皆その意なり。また万葉十に、「久かたの天のしるしと水無河へだてておきし神代し恨めし。これは天の川を云えるにて、まさしく水の無きよしなり。然るに右の歌どもを皆、かの山崎のあなたなる水無瀬川と心得たるは、ひが事なり。山ざきのあなたなるは、古は山崎川とも、立田川とも云えりしこと、上の件に云えるが如くにて、みなせ河と云うは、古今集などの頃よりは後の名なり。
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『玉勝間』九の巻 妹背山万葉に、紀の国と詠みたれども、それは名手の川中なる瀬の山を、まがえて誤れるかと云い、かの貝原なども、吉野なるを、それなりと云えるは、みな後の歌にのみなずみて、万葉をよく見ざる、ひがことなり。万葉のおもむき、紀の国なる事は、何の疑いも無し。今も吉野に、それとて有るは、古今集の歌につきて、後に似つかわしき山を、それと名附けたる物なり。そもそも古今集なる、ながれてはの歌は、かの万葉七の、せの山にただにむかえる云云、うち橋わたす、又同巻に、きの川のべの妹と背の山、など有る歌によりて、妹背の山の中に落つるとは云い、よしやと重ねん料に、紀の川を、同じ川なれば、吉野の川とも詠みなせるものなり。又その歌に、よし野の川と云い、落つるとも有るから、六帖なるは、その川を、滝とも唱え伝えたるなるべし。
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『玉勝間』二の巻 又立田川然るに今水無瀬の里を過ぎて、はるかにあなたに、神内村と云う有りて、そのほとりに、ちいさき森のかたも有りて、これなむ神なびの杜なると云うなれど、そこにては、古の歌どもにかなわず、その近きほどには川も無し。思うに神内と云うは、後に地をうつして、古の名をのこしたる物にやあらん。かの森のかたは、さて後につくりたるにも有るべし。古今集の詞書に、山崎より神なびのもりまで云云とあるは、山崎をはなれて、あなたなるように聞こゆるは同じ山ざきの内ながら、その里よりかの森までと云うなるべし。
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