玉勝間 / 十三の巻 親王宣旨の書キやう
同書に、文治五十一十九、同記云、高倉院宮宮、可被下親王宣旨、云云、宣下御名字、云云、書壇紙一枚云云、其書樣、守貞惟明已上爲親王と見ゆ。件の二ッの御名、並びて各一行に書て、已上云云は、又一行にて、少し下して書たり。
新字:同書に、文治五十一十九、同記云、高倉院宮宮、可被下親王宣旨、云云、宣下御名字、云云、書壇紙一枚云云、其書様、守貞惟明已上為親王と見ゆ。件の二ッの御名、並びて各一行に書て、已上云云は、又一行にて、少し下して書たり。
書き下し
同書に、文治五、十一、十九、同記に云う、高倉院の宮宮、親王の宣旨を下さるべし、云云、御名字を宣下す、云云、壇紙一枚に書く云云、その書様、守貞惟明已上親王と為すと見ゆ。件の二つの御名、並びて各一行に書きて、已上云云は、又一行にて、少し下して書きたり。
現代語訳
同じ書(吉部秘訓抄)に、「文治五年十一月十九日、同じ記録に言う、高倉院の宮たちに親王の宣旨を下されるべきである、云々。御名を宣下する、云々。壇紙一枚に書く云々。その書き方は『守貞 惟明 已上為親王』である」と見える。この二つの御名は並べてそれぞれ一行に書き、「已上」云々はまた一行で、少し下げて書いてある。
解説
高倉天皇の皇子たちに親王の宣下を行った際の文書の書式を、公家の日記から写した段である。守貞と惟明の二人の皇子の名をそれぞれ一行に並べて書き、最後に「已上親王と為す」と少し下げて一行で書いたという。守貞親王は後に承久の乱の後、自らは即位しないまま後高倉院として院政を行った人物である。宣長がこうした文書の行の配置まで書き留めたのは、有職故実では、文書の書き方そのものが身分や儀礼の秩序を表しているからである。名前を並べる順序や、行を下げる位置にも意味がある。形式を細部まで正確に伝えることが、古い制度を理解し、再現するための基礎となる。書式の一つひとつに込められた意味を読み取る目を示した段である。
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