玉勝間 / 六の巻 小宮
同じ書に、建久四十一五、同記云、今日仁和寺小宮、(高倉院御子)御灌頂後朝也云云。物がたり書どもに、いまだ元服せぬ人を、小君と云へり。これに小宮と有るは、皇子の、童にますほどを申すなるべし。
書き下し
同じ書に、建久四、十一、五、同記に云う、今日仁和寺の小宮(高倉院の御子)御灌頂の後朝なり云云。物がたり書どもに、いまだ元服せぬ人を、小君と云えり。これに小宮と有るは、皇子の、童にますほどを申すなるべし。
現代語訳
同じ書に、建久四年十一月五日の同じ記に「今日は仁和寺の小宮(高倉院の御子)の御灌頂の翌朝である」云々とある。物語の書などでは、まだ元服していない人を「小君」と言っている。これに「小宮」とあるのは、皇子が子どもでいらっしゃるうちをいうのであろう。
解説
吉部秘訓抄に見える「小宮」という呼び名の意味を推した短い一段である。仁和寺に入った高倉院の皇子を小宮と呼んでいる。宣長は、物語で元服前の少年を小君と呼ぶのと同じく、小宮は皇子が童であるうちの呼び名だろう、と考える。呼び名の一字に、年齢や身分の段階が込められていたのである。仁和寺は代々皇族が門跡を務めた寺で、幼い皇子が入寺して灌頂を受けることも多かった。宣長は物語の用語と記録の用語とを突き合わせて意味を定めている。文学と史料の両方を読む者だからこそできる考証であり、言葉の意味を一つの資料だけで決めない慎重さがうかがえる。
関連する章句
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