玉勝間 / 十三の巻 ねずみ色
吉部秘訓抄に、文治四三二、同記云、云云心喪色有輕重、鼠色鈍色、(諒闇之時着色歟)又練色淺黃等、同以通用歟と見ゆ、これらの色、みなにび色にて、少しづつかへて染たるものなり。淺黃と云ふは、靑にぴと云ひし物なり。諒闇之時云云は、當時一種鈍色と云ひし名につきて、諒闇ノ之時、鈍色を着するよし見えたるは、是歟と云ふ注なり。
新字:吉部秘訓抄に、文治四三二、同記云、云云心喪色有軽重、鼠色鈍色、(諒闇之時着色歟)又練色浅黄等、同以通用歟と見ゆ、これらの色、みなにび色にて、少しづつかへて染たるものなり。浅黄と云ふは、青にぴと云ひし物なり。諒闇之時云云は、当時一種鈍色と云ひし名につきて、諒闇ノ之時、鈍色を着するよし見えたるは、是歟と云ふ注なり。
書き下し
吉部秘訓抄に、文治四、三、二、同記に云う、云云心喪の色に軽重有り、鼠色鈍色、(諒闇の時着る色か)又練色浅黄等、同じく以て通用するかと見ゆ、これらの色、みなにび色にて、少しずつかえて染めたるものなり。浅黄と云うは、青にぴと云いし物なり。諒闇の時云云は、当時一種鈍色と云いし名につきて、諒闇の時、鈍色を着するよし見えたるは、是かと云う注なり。
現代語訳
『吉部秘訓抄』に、「文治四年三月二日、同じ記録に言う、云々。心喪の服の色には軽重がある。鼠色・鈍色(諒闇の時に着る色か)、また練色・浅黄なども同じく通用するのか」と見える。これらの色はみな鈍色(にびいろ)で、少しずつ変えて染めたものである。「浅黄」というのは「青にび」と言ったものである。「諒闇の時」云々は、当時一種の色を鈍色と言った名について、「諒闇の時に鈍色を着る」と書物に見えるのは、これのことかという注である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 浅黄と云ふ色浅黄とは、今の世には、青色の薄きを云えども、昔は黄色の薄きを云い、また緑色をも云えりき。この事吉部秘訓抄、建久二年十二月、また玉薬建暦二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさぐさ論有り。黄色の薄きを云えるが本なり。緑色を云うは、浅葱の意にて、異なるを、唱えの同じきままに、まがいつるなり。また後に薄青色を云うは、緑色より移れるなるべし。
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『玉勝間』十の巻 親王御元服袍の文又色また浅黄と云ふ色の事同じ抄に、親王の御元服、御袍の色井びに禄の法の事云々。予申して云う、御袍の文に於ては、雲鶴の由、保延の記に見ゆ云々。また右府云う、御袍の色如何。予申して云う、西宮の文の如くんば、黄色か。而るに保延には浅黄を用いらる云々。左大弁(定長)云う、縫殿寮式、浅黄の由を載すと雖も、用途に苅安を載す、之を以て之を思うに、黄色か云々。長和二年、敦儀・敦平の御元服、両親王黄衣を着す、共に浅黄なり、世に之を黄衣と称す。寛治元年、親王元服、緑袍を着す云々。同じく廿六、今日、今宮御元服の事有り、無品守貞親王)御袍は浅黄の綾の袍、雲鶴の文、裏無し、件の御袍の色、兼ねて沙汰有り、保延の例を逐わるる所なりと有り。上の件の親王の御元服の御袍の色、黄と緑とたがえる事有りしは、色の名のまがえる故なり。そのまがいは、大かた古き物に、浅黄と有るは、黄色の浅きを云えるなり。然るを後に、浅葱色とまがいて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に、浅黄と有るをも、誤りて浅葱色と心得られたるなり。長和二年云々、共浅黄也と有るは、黄衣の黄色の浅き由をことわれるなり。この程までは、まがわざりしなり。然るに寛治元年の度、緑袍を用いられしは、古記に浅黄と記せるを、浅葱色の事と心得ての誤なるべし。保延被用浅黄と有るも、浅葱色にぞ有りけむ、さて同廿六と有るは、建久二年十二月の廿六日なり。
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『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ親を思う心の浅からむ子は、三年をまたで、はやくかなしさはさめぬべきに、なお服をきて、悲しきさまをもてつけ、また心ざし深からんは、三とせ過ぎたらむからに、かなしさは歇むべきならぬに、ぬぎ捨てて、名残り無くしなさむは、共にうわべのいつわりに有らずや。さるを皇国にこの服と云う事の無かりしは、きわやかなるかぎりの無き悲しさのままなるにて、長くも短かくも、これぞまことにかなしむには有りける。服は着ざれども、悲しきはかなしく、着ても、かなしからぬは悲しからねば、いたづら事なり。さればかの国にても、漢の文帝と云いし王は、こよなく服をちぢめたりしを、儒者は、いみしく善からぬ事に、もどき云えども、ことわり有る事ぞかし。皇国にならいまねばれたるにも、ちぢめて、親のをも、一とせと定められたり。さるはいと久しく、身のつとめを欠かむも、よう無きいたづら事なれば、かなしながらに、出でて仕えんに、なでう事かあらむ。さてかく云うは、服ちょう事の有り無しの、本のあげつらいにこそあれ、すでにその御おきての有るうえは、かたく守りて、冒すまじき物ぞかし。
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『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
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『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事また忌日たびたびにては、おのずからまことの忌日の、なおざりになるかたあり、とも云うべけれど、そは今も祥月とて、またことにすれば、これはた欠くるかたは無きぞかし。さてまた近き世には、年忌と云うわざ有りて、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、廿五年忌、卅三年忌、五十年忌、百年忌と、また殊にねもころに物すなる、これはた古は曾て無かりしわざにて、皇国にては、昔は一周忌をはてと云いて、殊に物し、もろこしにては、一周忌を小祥と云い、服のはての三年を、大祥と云えるのみこそ有りけれ、その外仏の道にも、この年忌は無き事なり。然るにこのわざ、ようようにひろごりて、今は仏の諸宗にも、あまねくその祖師などのためにも、遠忌とて、三百年五百年千年などまで、遥かに数え出でて、いかめしく行う事とぞ成れりける。そもそもこの年忌と云うわざも、月毎の忌日と同じたぐいにしあれば、古に無かりしわざならんからに、捨つべきにもあらず。何わざも、古に異なるをば、ひたぶるにはぶき捨てむとするは、よろしからぬさかしらなり。そこないだに無くは、時世のならいにそむかざらむこそ善からめ。また事が中には、古よりも、今のしわざのまされるも、などか無からむ。
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『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ人の死にたる後のわざ、上つ代にはいかに有りけむ。神代に天若日子の身うせにし時、八日八夜遊ぶと有りて、楽して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知りがたし。ただし音楽して遊びし事は、なべての定まりなり。そのよしは古事記伝に云えるが如し。さて死を穢とする事は、神代より然り。されどそれも、日数のかぎりの定まりしは、後なるべし。また忌服は、から国をまねびたる、後の事なり。書紀の仁徳天皇の御巻に、素服と云う字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそ有れ、そのかみさる事有りしにあらず。仲哀天皇崩りましまして、いく程も無く、神功皇后の、重き御神わざの有りしにても、服無かりけむ事知られたり。そもそも漢国に、喪服と云う事のかぎりを、こまやかに定めたるは、ねもころなるに似たれども、なかなかに心ざし浅き、うわべの事なり。親などにおくれたらん悲しさは、その月のその頃までと、きわやかにかぎりの有るべきわざには有らざるに、しいてかぎりをたてて、きわやかに定めたるは、かの国のなべてのくせにて、云いもてゆけば、人にいつわりを教うるわざなり。
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