玉勝間 / 十三の巻 九条廃帝
御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生れさせ給ふ。義子內親王と申す。弘長元年三月八日、御とし卄八にて、院號かうぶり給ひて、和德門院と申シき。
新字:御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生れさせ給ふ。義子内親王と申す。弘長元年三月八日、御とし卄八にて、院号かうぶり給ひて、和徳門院と申シき。
書き下し
御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生まれさせ給う。義子内親王と申す。弘長元年三月八日、御とし廿八にて、院号こうぶり給いて、和徳門院と申しき。
現代語訳
御子は、崩御なさった年に、法印性慶の娘の生んだ姫宮がお一人お生まれになった。義子内親王と申し上げる。弘長元年三月八日、御年二十八歳で院号を賜り、和徳門院と申し上げた。
解説
九条廃帝の段の結びで、廃帝の没年に生まれた一人の姫宮について書き添えている。姫宮は義子内親王と呼ばれ、二十八歳で院号を受けて和徳門院となった。父を知らずに育った皇女が、後に女院として遇されたことを記すことで、宣長は廃帝の血筋が絶えずに続いたことを示し、前段の嘆きに小さな慰めを添えている。わずかな記事ではあるが、失われかけた系譜をつなぎとめておこうとする記録者の配慮が感じられる。皇統の記録に表立って残らない人々の消息を丹念に拾うことは、宣長にとって皇国の歴史を正しく伝える営みの一部であった。家族の記録を一人ひとりまで残しておくことの大切さにも通じる。
関連する章句
-
『玉勝間』十三の巻 九条廃帝九条の廃帝と申し奉るは、順徳天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原の立子、東一条の院と申し、後京極の摂政良経公の御女なり。帝建保六年十月十日に降誕、御諱は懐成と申す。同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立ち給い、承久三年四月廿日に、御年四つにて受禅有り、然るところに、東の賊北条義時、いたく荒びて、ゆゆしき世の乱れおこりて、かの族泰時時房など云う賊ども、おしのぼり、同じき六月に、京にみだれ入って、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に遷し奉り、この新帝をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなども世の常の事をこそ云え、云わむかたも無き、逆事のまがことにぞ有りける。かくてこの帝はその七月九日に、位を譲らせ給いて、ひそかにて九条院に渡御有り。それよりこの院に、御母女院と御同居ましまして、文暦元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおわしましける。いまだ御元服の儀もおわしまさざりき。受禅有りしかども、わずかに四月が程に、おりさせ給いて、いまだ即位の儀も行われざりしかば、皇代の御数にも、いらせ給わざるなり。いずれの地にか葬り奉りけむ、御陵の在る処も聞こえぬは、いともかしこき御事になむ。
-
『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
-
『玉勝間』十三の巻 親王宣旨の書キやう同書に、文治五、十一、十九、同記に云う、高倉院の宮宮、親王の宣旨を下さるべし、云云、御名字を宣下す、云云、壇紙一枚に書く云云、その書様、守貞惟明已上親王と為すと見ゆ。件の二つの御名、並びて各一行に書きて、已上云云は、又一行にて、少し下して書きたり。
-
『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌されど此みこのみの御とがにしも有らず、いともかしこく、神をば忘れ奉りて、ただひたぶるに、仏の教をとうとみ行うをのみ、いみしき事にはして、かかるすじを、かえりて心深くあわれなるわざに、なべて人も云い思う、世の中のならいなりしかばぞかし。そもそも此ひめみこは、世に大斎院と申して、円融天皇の御世、天延と云いし程より、後一条のみかどの、長元と云う頃まで、五御世にわたりて、御よわい七十に近きまで、斎におわしましければ、さばかりの御老の世まで、仏の道おこない給う事かなわぬを、心うく悲しくおぼしけむも、さる世のならいにては、御ことわりぞかし。さればさばかり仲子に御心よせて、西に向いて泣き給いし、此みこしも、あやしく長く平らかにつかうまつり給えりし事は、大神の御心にも、世の中のならいにおぼしゆるして、あわれとおぼしめしてにや有りけん。又それも、まがつひの神の、例のあやしき御心にや有りけん。
-
『玉勝間』一の巻 同卿二所荘を建礼門院に奉らるる事同書に云う、文治三年二月一日、二品、没官領の内二箇所を以て、建礼門院に避らるべきの由、其の沙汰有り、是れ摂津国真井・島屋両庄なり、元は八条前内府の知行と云々、彼の御幽栖を訪い申さるるに依るなり。
-
『神皇正統記』巻五 廃帝(仲恭天皇)廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る