玉勝間 / 十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事
壽永二年八月、新主を立テ奉リ給はむこと、法皇おぼしめしわづらひて、主上の還御を待奉るべしやはた劒璽は無しといへども、新主を立テ奉るべしやのよし、御トを行はれけるに、神祇官陰陽寮ともに、主上の還御を待奉り給ふべきよし申シけり。然れども猶おぼしめすよし有て、重ねて御トありけるに、かれこれ同じからざる故に、なほ議ありて、つひに新主を立テ奉らるべきに定まりぬ。かくて高倉ノ天皇の御子たち、三の宮四の宮のうち、いづれをかと、おぼしめしわづらふによりて、又しも官寮に仰せて、御トありければ、官も寮も、三の宮吉なる由を申シけるに、女房に夢のさとしの有ける由にて、猶四の宮をとなむおぼしめしけるに、又木曾ノ義仲申すこと有ける。故三條、宮の御子の、加賀ノ國におはしますをこそ、立テ奉らるべけれ。
新字:寿永二年八月、新主を立テ奉リ給はむこと、法皇おぼしめしわづらひて、主上の還御を待奉るべしやはた劒璽は無しといへども、新主を立テ奉るべしやのよし、御トを行はれけるに、神祇官陰陽寮ともに、主上の還御を待奉り給ふべきよし申シけり。然れども猶おぼしめすよし有て、重ねて御トありけるに、かれこれ同じからざる故に、なほ議ありて、つひに新主を立テ奉らるべきに定まりぬ。かくて高倉ノ天皇の御子たち、三の宮四の宮のうち、いづれをかと、おぼしめしわづらふによりて、又しも官寮に仰せて、御トありければ、官も寮も、三の宮吉なる由を申シけるに、女房に夢のさとしの有ける由にて、猶四の宮をとなむおぼしめしけるに、又木曽ノ義仲申すこと有ける。故三条、宮の御子の、加賀ノ国におはしますをこそ、立テ奉らるべけれ。
書き下し
寿永二年八月、新主を立て奉り給わむこと、法皇おぼしめしわずらいて、主上の還御を待ち奉るべしやはた剣璽は無しといえども、新主を立て奉るべしやのよし、御トを行われけるに、神祇官陰陽寮ともに、主上の還御を待ち奉り給うべきよし申しけり。然れどもなおおぼしめすよし有りて、重ねて御トありけるに、かれこれ同じからざる故に、なお議ありて、ついに新主を立て奉らるべきに定まりぬ。かくて高倉の天皇の御子たち、三の宮四の宮のうち、いずれをかと、おぼしめしわずらうによりて、またしも官寮に仰せて、御トありければ、官も寮も、三の宮吉なる由を申しけるに、女房に夢のさとしの有りける由にて、なお四の宮をとなむおぼしめしけるに、また木曾の義仲申すこと有りける。故三条の宮の御子の、加賀の国におわしますをこそ、立て奉らるべけれ。
現代語訳
寿永二年(1183)八月、新しい天皇をお立てになることについて、法皇(後白河院)は思い悩まれ、天皇(安徳天皇)のお帰りをお待ちすべきか、それとも剣璽は無いとはいえ新しい天皇をお立てすべきかを、占いにかけられたところ、神祇官も陰陽寮もともに、天皇のお帰りをお待ちになるべきだと申し上げた。けれども、なお思うところがおありで、重ねて占いをなさったが、あれこれ結果が一致しなかったので、さらに評議があって、ついに新しい天皇をお立てすることに決まった。こうして高倉天皇の皇子たち、三の宮と四の宮のうちどちらをと思い悩まれて、また神祇官と陰陽寮に命じて占わせたところ、神祇官も陰陽寮も三の宮が吉だと申し上げたが、女房に夢のお告げがあったということで、やはり四の宮をとお考えになっていたところへ、また木曾義仲が申し立てることがあった。「亡き三条宮(以仁王)の御子で、加賀国におられる方をこそお立てになるべきである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事そのゆえは、父宮の、はじめて義兵をおこし給えりし、御勲功と申し、御身を捨てさせ給いし、御孝と申し、この宮を立て奉るべきこと、異議あるべからずと申すによりて、入道関白、摂政、左大臣、右大臣などに、仰せあわされけるに、いずれもかの宮の御事は、然るべからざるさまに申し給いけれども、そのかみ義仲が申すことなれば、さし置かれがたくて、またしも御トありける。この度は、かの夢のさとしの事によりて、四の宮を第一とし、三の宮を第二、かの北国の宮を第三として、うらなわしめ給えるに、官寮ともに、第一最吉、第二半吉、第三は、始終不快なりけり。このト形を、義仲に見せられけるに、義仲、なおこの御トに、北国の宮を、第一にせられざりける事をなん、いきどおり申しける。されど法皇の御心をもて、ついに四の宮をぞ定め奉り給いける。この御事定まりしは、同じ月の十八日にて、廿日にぞ践祚の儀有りける。件の御事どもは、月の輪殿の玉海と云う記録に、つぶさに記されたるを、今はその意をとりて、大かたを記せり。凡そト筮は再三せず、而るに今度立王の沙汰の間、数度御トあり、神定めて霊無き歟、と記されたる、まことにさる事なり。かくて元暦元年七月廿八日、即位の礼おこなわれける。
-
『玉勝間』十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事この即位の御事、同じ記に、かえすがえす論あり。その大むねは止む事をえず、立王の御事は有りといえども、即位の礼を行わるる事にいたりては、三種の神宝の御帰京を待ち給うべきわざなりとなり。その中に、剣璽を帯びずして、即位の例出で来なば、後代乱逆の基、ただこの事に在るべし、と云う語あり。この一こと、ちよろずのこがねにも替え難く、いともいとも尊くなむ。法皇は、後白川の天皇、主上は、安徳天皇、三の宮は、守貞親王、後高倉の院と申す。三条の宮は、以仁王、世に高倉の宮と申す。入道関白は松殿基房公、摂政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊御門殿経宗公、右大臣は、すなわちこの玉海記し給える、月の輪殿兼実公なり。
-
『神皇正統記』巻五 第八十二代 後鳥羽院第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条の院、藤原殖子、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。
-
『玉勝間』一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
-
『玉勝間』八の巻 後鳥羽ノ天皇ノ御諱のよみ後鳥羽の天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと仮字附け有り。成、平なりと云う事なるべし。
-
『玉勝間』十三の巻 鳥羽ノ法皇崇徳上皇熊野御幸御出立の事同記に、同二年二月五日壬辰、今日両上皇熊野に参詣せしめ給う。寅の尅御進発、権僧正覚宗、両方の御先達と為る、法皇白布の御浄衣、同じく頭巾、絹の小袈裟、御杖を持たしめ給う。上皇、白生絹の御浄衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、権中納言藤公能卿、参議同〓長朝臣、上皇の御共に扈従す、云云、三月四日辛酉、両院熊野より還御、法皇稲荷に参らしめ給わず、直ちに鳥羽殿に入御す、去る比法印円行入滅す、若しくは件の事に依るか。件の人、白河院の御子と称すと雖も、頗る疑殆有りと云云。晏駕の昔、議有りて御忌に籠らずと云云。上皇稲荷に参らしめ給い畢んぬと有り。これを見れば、熊野御幸よりかえらせ給いては、稲荷の社に詣で給いてさて御所に入らせ給う例にや有りけむ、尋ぬべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る