玉勝間 / 四の巻 法親王のはじめ
續世繼に、覺行法親王の御事を申シていはく、わらはにても親王の御名え給はねども、親王の宣旨かうぶり給へり。後二條ノおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、內親王と云ふ事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞え給ひしなり。斯くて後ぞ、打續きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給ふめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおはしまさず。
新字:続世継に、覚行法親王の御事を申シていはく、わらはにても親王の御名え給はねども、親王の宣旨かうぶり給へり。後二条ノおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、内親王と云ふ事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞え給ひしなり。斯くて後ぞ、打続きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給ふめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおはしまさず。
書き下し
続世継に、覚行法親王の御事を申していわく、わらわにても親王の御名え給わねども、親王の宣旨こうぶり給えり。後二条のおとど、出家の後は、例無きよし侍りけれども、白川院、内親王と云う事も有れば、法親王もなどか無からんとて、始めて法師の後、親王と聞こえ給いしなり。かくて後ぞ、打ち続きいづくにも、出家ののちの親王きこえ給うめる、と有り。法内親王の御例は、今の世までも、いまだおわしまさず。
現代語訳
続世継(今鏡)に、覚行法親王の御事を申して言うには、「童のときにも親王の御名はお受けにならなかったが、(出家の後に)親王の宣旨をお受けになった。後二条の大臣(藤原師通)は、出家の後に親王となるのは例がないと申したけれども、白河院が『内親王ということもあるのだから、法親王もどうしてないことがあろう』とおっしゃって、初めて法師になった後に親王と申し上げたのである。こうして後は、引き続きどこでも出家の後の親王が聞こえるようである」とある。法内親王の御例は、今の世に至るまで、まだいらっしゃらない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 法親王入道親王北山抄の御仏名の条の裏書に、天暦九年十二月二十二日、入道親王召しに依りて参候す云々、法親王仰せに依りて和琴を弾く、と有る。是れは同じ御事を、入道親王とも、法親王とも申せり。古くは通わして申せしなるべし。後の世には、親王のかざりおろし給えるを、入道親王と申し、僧になり給いて後に、親王になり給えるを、法親王と申して、かわり有めり。
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『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱屣の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやうやうしらせ給こともありしにや。
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『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
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