玉勝間 / 八の巻 後鳥羽ノ天皇ノ御諱のよみ
後鳥羽ノ天皇の御諱尊成、歷代編年集成に、タカヒラと假字附ヶ有り。成、平也と云ふ事なるべし。
新字:後鳥羽ノ天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと仮字附ヶ有り。成、平也と云ふ事なるべし。
書き下し
後鳥羽の天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと仮字附け有り。成、平なりと云う事なるべし。
現代語訳
後鳥羽天皇の御諱(実名)「尊成」に、歴代編年集成では「タカヒラ」と振り仮名が付けてある。「成」は「平(ひら)」であるということなのであろう。
解説
後鳥羽天皇の実名「尊成」の読み方を確かめた段である。天皇の実名は諱と呼ばれ、口にすることを避けたため、その読みは伝わりにくい。宣長は、歴代編年集成に「タカヒラ」と振り仮名があるのを見つけ、「成」を「ひら」と読むのは、「成」を「平」の意にとったからだろうと推す。「成」には事が成り、平らかに治まるという意味があり、字の意味から名の読みを当てたと考えたのである。後鳥羽天皇は、新古今和歌集の編纂を命じた歌人としても名高く、承久の乱に敗れて隠岐に流された天皇である。宣長は皇室を深く尊び、歴代の天皇の御名の正しい読みを知ることを、古学の大事な務めと考えていた。字は伝わっても読みが失われやすいのは、人の名に共通することである。古い名の読みを一つ一つ確かめることは、歴史上の人物を正しく記憶する第一歩である。
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