玉勝間 / 十の巻 親王御元服袍の文又色また浅黄と云ふ色の事
同抄に、親王御元服、御袍色并祿法事云云。予申云、於御袍文者、雲鶴之由、見保延記云云。又右府云、御袍色如何。予申云、如西宮文者、黃色歟。而保延被用淺黃云云。左大辨(定長)云、縫殿寮式、雖載淺黃之由、用途載苅安、以之思之、黃色歟云云。長和二年、敦儀敦平御元服、兩親王着黃衣、共淺黃也、世稱之黃衣。寛治元年、親王元服、着綠袍云云。同廿六、今日、今宮有御元服事、無品守貞親王)御袍淺黃綾袍、雲鶴文、無裏、件御袍色、兼有沙汰、所被逐保延之例也と有り。上ノ件親王御元服の御袍の色、黃と綠とたがへる事有りしは、色の名のまがへる故なり。そのまがひは、大かた古き物に、淺黃と有るは、黃色の淺きを云へるなり。然るを後に、淺葱色とまがひて、淺葱色のことをも、淺黃と書から、古き物に、淺黃と有るをも、誤りて淺葱色と心得られたるなり。長和二年云云、共淺黃也と有るは、黃衣の黄色の淺き由をことわれるなり。此程までは、まがはざりしなり。然るに寛治元年の度、綠袍を用ひられしは、古記に淺黃と記るせるを、淺葱色の事と心得ての誤なるべし。保延被用淺黃と有るも、淺葱色にぞ有りけむ、さて同廿六と有るは。建久二年十二月の廿六日なり。
新字:同抄に、親王御元服、御袍色并禄法事云云。予申云、於御袍文者、雲鶴之由、見保延記云云。又右府云、御袍色如何。予申云、如西宮文者、黄色歟。而保延被用浅黄云云。左大弁(定長)云、縫殿寮式、雖載浅黄之由、用途載苅安、以之思之、黄色歟云云。長和二年、敦儀敦平御元服、両親王着黄衣、共浅黄也、世称之黄衣。寛治元年、親王元服、着緑袍云云。同廿六、今日、今宮有御元服事、無品守貞親王)御袍浅黄綾袍、雲鶴文、無裏、件御袍色、兼有沙汰、所被逐保延之例也と有り。上ノ件親王御元服の御袍の色、黄と緑とたがへる事有りしは、色の名のまがへる故なり。そのまがひは、大かた古き物に、浅黄と有るは、黄色の浅きを云へるなり。然るを後に、浅葱色とまがひて、浅葱色のことをも、浅黄と書から、古き物に、浅黄と有るをも、誤りて浅葱色と心得られたるなり。長和二年云云、共浅黄也と有るは、黄衣の黄色の浅き由をことわれるなり。此程までは、まがはざりしなり。然るに寛治元年の度、緑袍を用ひられしは、古記に浅黄と記るせるを、浅葱色の事と心得ての誤なるべし。保延被用浅黄と有るも、浅葱色にぞ有りけむ、さて同廿六と有るは。建久二年十二月の廿六日なり。
書き下し
同じ抄に、親王の御元服、御袍の色井びに禄の法の事云々。予申して云う、御袍の文に於ては、雲鶴の由、保延の記に見ゆ云々。また右府云う、御袍の色如何。予申して云う、西宮の文の如くんば、黄色か。而るに保延には浅黄を用いらる云々。左大弁(定長)云う、縫殿寮式、浅黄の由を載すと雖も、用途に苅安を載す、之を以て之を思うに、黄色か云々。長和二年、敦儀・敦平の御元服、両親王黄衣を着す、共に浅黄なり、世に之を黄衣と称す。寛治元年、親王元服、緑袍を着す云々。同じく廿六、今日、今宮御元服の事有り、無品守貞親王)御袍は浅黄の綾の袍、雲鶴の文、裏無し、件の御袍の色、兼ねて沙汰有り、保延の例を逐わるる所なりと有り。上の件の親王の御元服の御袍の色、黄と緑とたがえる事有りしは、色の名のまがえる故なり。そのまがいは、大かた古き物に、浅黄と有るは、黄色の浅きを云えるなり。然るを後に、浅葱色とまがいて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に、浅黄と有るをも、誤りて浅葱色と心得られたるなり。長和二年云々、共浅黄也と有るは、黄衣の黄色の浅き由をことわれるなり。この程までは、まがわざりしなり。然るに寛治元年の度、緑袍を用いられしは、古記に浅黄と記せるを、浅葱色の事と心得ての誤なるべし。保延被用浅黄と有るも、浅葱色にぞ有りけむ、さて同廿六と有るは、建久二年十二月の廿六日なり。
現代語訳
同じ抄(吉部秘訓抄)に、「親王の御元服の際の御袍の色と禄の決まりのこと」云々とあり、「私が申し上げた。『御袍の文様については、雲鶴であることが保延の記録に見える』云々。また右大臣が言った。『御袍の色はどうか』。私が申し上げた。『西宮記の文のとおりならば黄色か。しかし保延には浅黄を用いられた』云々。左大弁(藤原定長)が言った。『縫殿寮式には浅黄とあるけれども、材料に苅安(黄色の染料)が載せてある。これから考えると黄色か』云々。長和二年、敦儀・敦平両親王の御元服では、両親王とも黄衣を着られた。ともに浅黄である。世にこれを黄衣という。寛治元年の親王の元服では緑の袍を着られた云々。同じく二十六日、今日、今宮の御元服のことがあった(無品守貞親王)。御袍は浅黄の綾の袍で、雲鶴の文様、裏無しである。この御袍の色については前もって議論があり、保延の例に従われたのである」とある。上の件の親王の御元服の御袍の色が、黄と緑とで食い違うことがあったのは、色の名が紛れたためである。その紛れとは、おおかた古い書物に「浅黄」とあるのは、黄色の薄いものを言ったのである。それを後に「浅葱色(あさぎいろ、薄い藍色)」と紛れて、浅葱色のことをも「浅黄」と書くようになったので、古い書物に「浅黄」とあるのをも、誤って浅葱色と理解されたのである。「長和二年云々、ともに浅黄なり」とあるのは、黄衣の黄色が薄いということを断ったのである。この頃までは紛れていなかったのである。それなのに寛治元年の時に緑の袍を用いられたのは、古い記録に浅黄と記しているのを、浅葱色のことと理解しての誤りであろう。「保延には浅黄を用いられた」とあるのも、浅葱色であったのだろう。さて「同じく二十六」とあるのは、建久二年十二月の二十六日である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 浅黄と云ふ色浅黄とは、今の世には、青色の薄きを云えども、昔は黄色の薄きを云い、また緑色をも云えりき。この事吉部秘訓抄、建久二年十二月、また玉薬建暦二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさぐさ論有り。黄色の薄きを云えるが本なり。緑色を云うは、浅葱の意にて、異なるを、唱えの同じきままに、まがいつるなり。また後に薄青色を云うは、緑色より移れるなるべし。
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『玉勝間』十三の巻 ねずみ色吉部秘訓抄に、文治四、三、二、同記に云う、云云心喪の色に軽重有り、鼠色鈍色、(諒闇の時着る色か)又練色浅黄等、同じく以て通用するかと見ゆ、これらの色、みなにび色にて、少しずつかえて染めたるものなり。浅黄と云うは、青にぴと云いし物なり。諒闇の時云云は、当時一種鈍色と云いし名につきて、諒闇の時、鈍色を着するよし見えたるは、是かと云う注なり。
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『玉勝間』七の巻 御即位親王代礼服実躬卿記(一名先人記)に云う、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴れ風静かなり、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁なり、)実躬右の親王代に定めらるるの間、巳の剋礼服を着る、先ず烏帽子を着て、理髪す、(小烏帽子なり、随身の烏帽子のごときなり、)次に大口を着る、(例の大口なり、)次に襪を着る、(例の襪二重、上に赤地の錦の襪を着るなり、休組有るべきか、或いはまた之無し、)次に単衣を着る、(例の単、袖を解き放つ、強ちに見えざるの上、小袖の寸法大小の間、無要たるに依るなり、)次に表袴を着る(唐綾を用うべきか、近代絶えてこの儀無し、仍りて例の縮線綾の表袴を着用する所なり、左の親王代もまたかくのごとし、表袴・大口等の腰、恒のごとく之を結ぶ、)次に裳を着る、(深色の顕文紗、表袴より三寸引き上げて之を着る、)次に小袖を着る、(黒櫨、裳より三寸引き上げて之を着る、下帯を以て之を結ぶ、)次に大袖を着る、(麹塵の御綾、織文は雲・唐鳥の丸、小袖より三寸引き上げて之を着る、下帯を以てまた之を結ぶ、大袖の頸紙半ばに当てて之を折る、承久の故大納言の着用かくのごとし、)次に綬を結ぶ、(平緒のごとく前に垂る、総の末は大袖の末の上程に至る、平緒に綬を垂るるの間かくのごとし、経俊は左の腰に垂れ、聊か前方に寄す、総の末は小袖の末に至る、)次に玉佩を付く、(右の腰に付け、下帯に付けて結び付くるがごとし、その末の綴は未だ押し交えず、)次に剣を帯ぶ、(紫檀の平緒、前に垂るる綬少し長く之を垂る、石見より一寸余出だす、後は平緒の下より一寸余出だし見す、)次に玉冠を着る、(冠は頭に合わせて之を調う、仍りて燈心の輪頗る無要の間之を入れず、紫の組緒を耳の後より頸の下に結ぶ、また小さき烏帽子の風口を構う、これ今の要なり、承久の故大納言は里亭より之を着る、)次に笏を取る(須らく牙笏を持つべし、次いでにて持つべからざるの間、置物を以て之に化す、)扇、(紫の扇なり、用意の為に之を懐中す、)已上玉佩の外悉く之を新調すと見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所々有り。
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『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
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『玉勝間』八の巻 十二ひとへ同じ書に、皇后宮の御方へわたらせ給えれば、宮は、中こき紅梅の十二の御ぞに、同じ色の御ひとえ、くれないの打ちたる、もえぎの御うわぎ、えびぞめの御こうちぎ、花山吹の御から衣、からのうす物の御も、けしきばかり引かけて云云と有り。俗に十二ひとえと云うは、此十二の御ぞに、同じ色の御ひとえ、と有る事より出たる名目にや有らむ。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第左の内侍まづのぼりて、左の御わきより、御けんをまいらせおく。御はしをしりぞきて、右のしもに内侍の座につきぬ。女王のしょうぞく、二色くれないのひとえ、そおうのうわぎ、あかいろのからぎぬ、かみあげの内侍は、勾当とこれ新内侍なり。御ぜんの命婦、みあれ、いつぬき、宮人、いしかわ、いぎの命婦、ははき、さぬき、ひぜん、たましき、これみなうらこきそおう、やなぎのからぎぬなり。こしょうの命婦、右衛門督殿(やなぎにくれないのひとえ、こうばいのうわぎ、)新左衛門督殿(もえぎにくれないのひとえ、山ぶきのうわぎ、)新宰相殿(むらさきうすように、しろきひとえ、山ぶきのうわぎ、もえぎのからぎぬ、)宮内卿殿(新宰相殿に同じ、)治部卿殿(紫のうすように、もえぎのうわぎ、えびぞめのからぎぬ、)少将内侍、少輔内侍(まつがさねに紅のひとえ、やなぎのからぎぬおなじ、)つねの衣のうえに、かいふにからぎぬ、こうけつの衣、ひらびたいなり。ぎょうれつのあいだの事、みさきにいぎの命婦四人、(えんどうの左右につづけり、)しょうちょうの左につく。つぎにけんしの内侍二人、(左こうとう、右はこれなり、)こしょうの女房、御うしろにあゆみつづきてまいる。
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