玉勝間 / 六の巻 浅黄と云ふ色
淺黃とは、今の世には、靑色の薄きを云へども、昔は黄色の薄きを云ひ、又綠色をも云へりき。此事吉部秘訓抄、建久二年十二月、又玉藥建曆二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさぐさ論有り。黃色の薄きを云へるが本なり。綠色を云ふは、淺葱の意にて、異なるを、唱への同じきままに、混ひつるなり。又後に薄靑色を云ふは、綠色より移れるなるべし。
新字:浅黄とは、今の世には、青色の薄きを云へども、昔は黄色の薄きを云ひ、又緑色をも云へりき。此事吉部秘訓抄、建久二年十二月、又玉薬建暦二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさぐさ論有り。黄色の薄きを云へるが本なり。緑色を云ふは、浅葱の意にて、異なるを、唱への同じきままに、混ひつるなり。又後に薄青色を云ふは、緑色より移れるなるべし。
書き下し
浅黄とは、今の世には、青色の薄きを云えども、昔は黄色の薄きを云い、また緑色をも云えりき。この事吉部秘訓抄、建久二年十二月、また玉薬建暦二年十二月、親王元服の時の、袍の色につきて、くさぐさ論有り。黄色の薄きを云えるが本なり。緑色を云うは、浅葱の意にて、異なるを、唱えの同じきままに、まがいつるなり。また後に薄青色を云うは、緑色より移れるなるべし。
現代語訳
「浅黄(あさぎ)」とは、今の世では薄い青色をいうが、昔は薄い黄色をいい、また緑色もいった。このことは吉部秘訓抄の建久二年十二月、また玉蘂の建暦二年十二月の、親王の元服のときの袍の色について、さまざまな論がある。薄い黄色をいうのが本来である。緑色をいうのは「浅葱(あさぎ)」の意味で、別の言葉であるのを、呼び方が同じであるために混同したのである。また後に薄い青色をいうのは、緑色から移ったのであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 親王御元服袍の文又色また浅黄と云ふ色の事同じ抄に、親王の御元服、御袍の色井びに禄の法の事云々。予申して云う、御袍の文に於ては、雲鶴の由、保延の記に見ゆ云々。また右府云う、御袍の色如何。予申して云う、西宮の文の如くんば、黄色か。而るに保延には浅黄を用いらる云々。左大弁(定長)云う、縫殿寮式、浅黄の由を載すと雖も、用途に苅安を載す、之を以て之を思うに、黄色か云々。長和二年、敦儀・敦平の御元服、両親王黄衣を着す、共に浅黄なり、世に之を黄衣と称す。寛治元年、親王元服、緑袍を着す云々。同じく廿六、今日、今宮御元服の事有り、無品守貞親王)御袍は浅黄の綾の袍、雲鶴の文、裏無し、件の御袍の色、兼ねて沙汰有り、保延の例を逐わるる所なりと有り。上の件の親王の御元服の御袍の色、黄と緑とたがえる事有りしは、色の名のまがえる故なり。そのまがいは、大かた古き物に、浅黄と有るは、黄色の浅きを云えるなり。然るを後に、浅葱色とまがいて、浅葱色のことをも、浅黄と書くから、古き物に、浅黄と有るをも、誤りて浅葱色と心得られたるなり。長和二年云々、共浅黄也と有るは、黄衣の黄色の浅き由をことわれるなり。この程までは、まがわざりしなり。然るに寛治元年の度、緑袍を用いられしは、古記に浅黄と記せるを、浅葱色の事と心得ての誤なるべし。保延被用浅黄と有るも、浅葱色にぞ有りけむ、さて同廿六と有るは、建久二年十二月の廿六日なり。
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『玉勝間』十三の巻 ねずみ色吉部秘訓抄に、文治四、三、二、同記に云う、云云心喪の色に軽重有り、鼠色鈍色、(諒闇の時着る色か)又練色浅黄等、同じく以て通用するかと見ゆ、これらの色、みなにび色にて、少しずつかえて染めたるものなり。浅黄と云うは、青にぴと云いし物なり。諒闇の時云云は、当時一種鈍色と云いし名につきて、諒闇の時、鈍色を着するよし見えたるは、是かと云う注なり。
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『玉勝間』十一の巻 中間と云ふものの事永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
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『玉勝間』四の巻 月草の事月草は、今の世に露草と云う物なり。国によりて、ぼうし草とも、べべし草とも云う。世にぼうしと云いて、物を染むる紙あるは、この草にて染めたる故の名なり。また古き歌に、花色衣と詠めるも、この月草染めなり。今の世に、青色を花色と云うこれなり。またそれをちくさとも云うは、月草を訛れるなり、と或る人云えり。
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『玉勝間』十三の巻 白馬ノ節会文徳実録にも、陽気を助くるなりとあれば、白き馬にはあらず、青なりし事決し。貞観儀式には、青馬とさえあるをや。然るを後の世までも、文には白馬と書きながら、語には猶古のままに、あおうまと唱え来て、しろうまとは云わず。白馬と書けるをも、あおうまと訓むによりて、人みな心得誤りて、古は実に青き馬なりし事をば、え知らで、もとより白き馬と思い古書どもに青馬と書けるをさえ、白き馬を然云えりと思うは、いみじきひがことなり。白きをいかでか青馬とは云わむ。
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『玉勝間』三の巻 朝臣と云ふ字の事阿曾美にて、かばねの朝臣は、吾兄臣と云う事なり。然るを天武天皇の御世に、八色のかばねを定め給える時より、朝臣とは書き始められたり。そは此字の、あさおみの訓を借りて、約めたる物ながら、字の義をも思いての事なるべし。漢籍にも、蔡邕が独断に、公卿侍中尚書、帛を衣て朝するを朝臣と曰う、諸営校尉将大夫以下、亦朝臣と為す、と云えること有れど、かの国の書には、常にはおさおさ見えぬ称なり。
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