玉勝間 / 十一の巻 中間と云ふものの事
永仁三年にしるせる、布衣記と云ふふみに、云云若黨中間、跡上下着召具、また中間事、折鳥帽子小結常也染直垂ニ大帷ヲ重ネ、袴ニハ大口ヲカサネ云云など云へり。然れば中間と云ふもの、昔のは、今の世に云ふとは、異なるものなりけむ。
新字:永仁三年にしるせる、布衣記と云ふふみに、云云若党中間、跡上下着召具、また中間事、折鳥帽子小結常也染直垂ニ大帷ヲ重ネ、袴ニハ大口ヲカサネ云云など云へり。然れば中間と云ふもの、昔のは、今の世に云ふとは、異なるものなりけむ。
書き下し
永仁三年にしるせる、布衣記と云うふみに、云云若党中間、跡に上下着て召し具す、また中間の事、折烏帽子小結常なり染直垂に大帷を重ね、袴には大口をかさね云云など云えり。然れば中間と云うもの、昔のは、今の世に云うとは、異なるものなりけむ。
現代語訳
永仁三年(1295)に記した『布衣記』という書に、「……若党と中間は、後ろに上下を着て召し連れる」、また「中間のことは、折烏帽子に小結が普通である。染めた直垂に大帷(おおかたびら)を重ね、袴には大口袴を重ねる……」などと言っている。そうであれば、中間というものは、昔のものは今の世でいう中間とは違うものであったのだろう。
解説
武家の従者である「中間」の昔の姿を、鎌倉時代の武家故実書『布衣記』から確かめた短い段である。宣長の時代の中間は、武家に仕えて雑用や供回りをする身分の低い奉公人であった。ところが『布衣記』では、中間が若党と並んで上下を着て主人に従い、折烏帽子に染め直垂、大帷、大口袴を重ねるという、それなりに整った装いをしている。宣長はここから、同じ中間という呼び名でも、昔と今とでは実体が違っていたのだろうと推し量る。言葉は残っても、それが指すものは時代とともに移り変わる。今の意味を古い文献に当てはめて読むと誤る、という古学の基本的な用心を、身近な身分の名で示した一例である。
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 直綴と云ふ衣今の世に、直綴と云う法衣あり。同書延文二年四月のところに、この名見えたり。また同四年四月十五日、公賢の大臣のかしらおろし給う所にも、直衣を脱ぎ、次に法衣を着る、墨染の大直綴なり。その色濃しと見ゆ。
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『玉勝間』六の巻 客殿吉部秘訓抄に、文治二、正、十、同記に云う、大夫史広房入り来る、先ず中門の外に立つ、予客殿に出ず、とあり。客殿と云うこと、その頃も有りしなり。
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『玉勝間』十一の巻 強装束衣紋男の眉をぬき鬚をはさみ歯を染る事同じ書にいわく。およそ装束の衣紋、上代は沙汰に及ばず、鳥羽院の御代より、強き装束を用うる故に、衣紋の沙汰出で来ぬるなるべし。上代は皆大装束とて、ふくさにて、強くは調えざるなり。然れども鳥羽院已前の人の影を書くとて、鳥羽院已後初まりたる、強装束の衣紋を書きたるは、絵師の不覚なり云云。およそかの御代已前は、男眉の毛を抜き、鬚をはさみ、金を付くる事一切これ無し、末代に及びて毎度矯飾の至りなり。
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