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玉勝間 / 二の巻 忌日祥月年忌の事

又忌日たびたびにては、おのづからまことの忌日の、なほざりになるかたあり、とも云ふべけれど、そは今も祥月とて、又ことにすれば、これはた缺くるかたは無きぞかし。さて又近き世には、年忌と云ふわざ有て、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、廿五年忌、卅三年忌、五十年忌、百年忌と、又殊にねもころに物すなる、これはた古、はかつて無かりしわざにて、皇國にては、昔は一周忌をはてと云ひて、殊に物し、もろこしにては、一周忌を小祥と云ひ、服のはての三年を、大祥と云へるのみこそ有けれ、其外佛の道にも、此年忌は無き事なり。然るに此わざ、やうやうにひろごりて、今は佛の諸宗にも、あまねく其祖師などのためにも、遠忌とて、三百年五百年千年などまで、遙かにかぞへ出て、いかめしく行ふ事とぞ成れりける。そもそも此年忌と云ふわざも、月每の忌日と同じたぐひにしあれば、古、に無かりしわざならんからに、捨つべきにもあらず。何わざも、古、に異なるをば、ひたぶるにはぶき捨てむとするは、よろしからぬさかしらなり。そこなひだに無くは、時世のならひにそむかざらむこそ善からめ。又事が中には、古、よりも、今のしわざのまされるも、などか無からむ。

新字:又忌日たびたびにては、おのづからまことの忌日の、なほざりになるかたあり、とも云ふべけれど、そは今も祥月とて、又ことにすれば、これはた欠くるかたは無きぞかし。さて又近き世には、年忌と云ふわざ有て、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、廿五年忌、卅三年忌、五十年忌、百年忌と、又殊にねもころに物すなる、これはた古、はかつて無かりしわざにて、皇国にては、昔は一周忌をはてと云ひて、殊に物し、もろこしにては、一周忌を小祥と云ひ、服のはての三年を、大祥と云へるのみこそ有けれ、其外仏の道にも、此年忌は無き事なり。然るに此わざ、やうやうにひろごりて、今は仏の諸宗にも、あまねく其祖師などのためにも、遠忌とて、三百年五百年千年などまで、遥かにかぞへ出て、いかめしく行ふ事とぞ成れりける。そもそも此年忌と云ふわざも、月毎の忌日と同じたぐひにしあれば、古、に無かりしわざならんからに、捨つべきにもあらず。何わざも、古、に異なるをば、ひたぶるにはぶき捨てむとするは、よろしからぬさかしらなり。そこなひだに無くは、時世のならひにそむかざらむこそ善からめ。又事が中には、古、よりも、今のしわざのまされるも、などか無からむ。

書き下し

また忌日たびたびにては、おのずからまことの忌日の、なおざりになるかたあり、とも云うべけれど、そは今も祥月とて、またことにすれば、これはた欠くるかたは無きぞかし。さてまた近き世には、年忌と云うわざ有りて、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌、廿五年忌、卅三年忌、五十年忌、百年忌と、また殊にねもころに物すなる、これはた古は曾て無かりしわざにて、皇国にては、昔は一周忌をはてと云いて、殊に物し、もろこしにては、一周忌を小祥と云い、服のはての三年を、大祥と云えるのみこそ有りけれ、その外仏の道にも、この年忌は無き事なり。然るにこのわざ、ようようにひろごりて、今は仏の諸宗にも、あまねくその祖師などのためにも、遠忌とて、三百年五百年千年などまで、遥かに数え出でて、いかめしく行う事とぞ成れりける。そもそもこの年忌と云うわざも、月毎の忌日と同じたぐいにしあれば、古に無かりしわざならんからに、捨つべきにもあらず。何わざも、古に異なるをば、ひたぶるにはぶき捨てむとするは、よろしからぬさかしらなり。そこないだに無くは、時世のならいにそむかざらむこそ善からめ。また事が中には、古よりも、今のしわざのまされるも、などか無からむ。

現代語訳

また、忌日がたびたびあっては、自然と本当の忌日がおろそかになる面がある、とも言えるだろうが、それは今も祥月として、また特別に行うのだから、これもまた欠けるところはないのである。さてまた近ごろは年忌という行いがあって、一周忌・三年忌・七年忌・十三年忌・十七年忌・二十五年忌・三十三年忌・五十年忌・百年忌と、また特に懇ろに行うが、これもまた古にはまったくなかった行いで、皇国では昔は一周忌を「はて」と言って特に行い、中国では一周忌を小祥と言い、喪服の終わる三年を大祥と言っただけであった。そのほか仏道にもこの年忌はないことである。ところがこの行いが次第に広まって、今は仏教の諸宗でも、広くその祖師などのためにも遠忌と称して、三百年・五百年・千年などまで遥かに数え出して、いかめしく行うことになった。そもそもこの年忌という行いも、毎月の忌日と同じ類なのだから、古になかった行いだからといって捨てるべきでもない。何事も、古と異なるものをひたすら省き捨てようとするのは、よくない小賢しさである。害さえなければ、時世の習わしに背かないのがよいだろう。また事柄の中には、古よりも今の行いのほうがまさっているものも、どうしてないことがあろうか。

解説

月命日に続いて年忌法要の習わしを論じた段である。一周忌から百年忌まで、さらに宗派の祖師の五百年・千年の遠忌まで、年忌は古にも中国にも、本来の仏道にもなかった後世の習わしだと宣長は確かめる。そのうえで、古になかったからといって捨てるべきではない、と言う。何事も古と違うものをひたすら省こうとするのは、よくない小賢しさであり、害がなければ時世の習わしに従えばよい、今のほうがまさっていることもある、と。古学の大家の言葉としては意外なほど柔軟だが、「世に久しく有りならいつる事を、にわかにやめむとするはわろし」と述べた前の段と一貫している。古を知ることと、今を古に戻すことは別だという、宣長の古学の節度がよく表れている。

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