玉勝間 / 十三の巻 ぬばたまむばたま
同抄に、天德歌合に、「むばたまのよるの夢だにまさしくは、我思ふ事をと、中務が詠める歌を、小野宮ノ左大臣判者にて、よるをば、ぬばたまとこそ云へとて、此歌を、まけに判ぜられたりと有リ。此判者の難は、すべてぬばたまと云ふべきを、むばたまと云へるを、ひがことと云ふにや。然らば古、の意にてよろし。もし又よるをばぬばたまと云ひ、夢をばむばたまと云ふなど云ふ說につきての難か。然らば中中にひがことなり。
新字:同抄に、天徳歌合に、「むばたまのよるの夢だにまさしくは、我思ふ事をと、中務が詠める歌を、小野宮ノ左大臣判者にて、よるをば、ぬばたまとこそ云へとて、此歌を、まけに判ぜられたりと有リ。此判者の難は、すべてぬばたまと云ふべきを、むばたまと云へるを、ひがことと云ふにや。然らば古、の意にてよろし。もし又よるをばぬばたまと云ひ、夢をばむばたまと云ふなど云ふ説につきての難か。然らば中中にひがことなり。
書き下し
同抄に、天徳歌合に、「むばたまのよるの夢だにまさしくは、我思う事をと、中務が詠める歌を、小野宮の左大臣判者にて、よるをば、ぬばたまとこそ云えとて、この歌を、まけに判ぜられたりと有り。この判者の難は、すべてぬばたまと云うべきを、むばたまと云えるを、ひがことと云うにや。然らば古の意にてよろし。もし又よるをばぬばたまと云い、夢をばむばたまと云うなど云う説につきての難か。然らば中中にひがことなり。
現代語訳
同じ『綺語抄』に、『天徳歌合』で「むばたまの夜の夢でさえ正夢であるならば、私の思うことを……」と中務が詠んだ歌を、小野宮左大臣(藤原実頼)が判者として、「夜はぬばたまと言うものだ」と言って、この歌を負けと判定された、とある。この判者の非難は、およそ「ぬばたま」と言うべきところを「むばたま」と言ったのを誤りとするのであろうか。そうであれば古の意にかなっていて正しい。もしまた「夜は『ぬばたま』と言い、夢は『むばたま』と言う」などという説によっての非難であろうか。そうであれば、かえって誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 夢を壁と詠める歌後撰集恋一に、源のおおきが通い侍りけるを、後後はまからずなり侍りければ、となりの壁の穴より、おおきをはつかに見て、つかわしける、駿河、「まどろまぬ壁にも人を見つるかなまさしからなむ春の夜の夢。金葉集雑上に、男の無かりける夜、こと人を、つぼねに入れたりけるに、もとの男もうで来あいたりければ、騒ぎて、かたわらのつぼねの、壁のくずれよりくぐりて、逃しやりて、又の日、その逃したるつぼねのぬしのがり、よべの壁こそ、嬉しかりしかなど、云いにつかわしたりければ、詠める。詠み人しらず、「ねぬる夜のかべさわがしく見えしかどわがちがうれば事無かりけり。此歌は、にがしたる局の主の詠めるなり。ちがうればとは、悪しき夢を見たるを、たがえて善きに成すわざを云う詞なり。源頼政の卿の家集に、岡崎の三位入道の許に、かべに滝のかた書きて、その滝の下より、まことの水を、おとしつぎたり、遠くて見れば、唯だ同じ水の落ちたるように見えしを、見てまかり帰りて、つかわしける。「うつつにもかべにも同じ滝を見てねても覚めても忘られぬかな。返し、「夢の世にかべより落つる滝の糸を君が心にかけけりやさは。
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『玉勝間』十二の巻 俊成卿定家卿などの歌を悪しく云ひなす事近き頃、万葉ぶりの歌をものするともがら、みだりに心高き事を云いて、俊成の卿定家の卿などの歌をば、いたく拙きようにたやすげに云いおとすなるは、世の歌よみどもおしなべて、神のごと尊みかしこむを、ねたみて、あながちに云いくたさむとする、みだり事なり。そもそもこの卿たちの歌、悪しき事も、絶えて無きには有らざめれど、すべてのよう、古えより世々のあいだに、ぬけ出でたるところ有りて、まことにいとめでたし。然云いおとすともがら、いかに詠むとも、あしもとへ寄る事あたわじをや。
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『玉勝間』十四の巻 夜〃寝ず起てゐるを居と云へる事万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらい君まつと居りしあいだに月かたぶきぬ、十八に、「おりあかしこよいはのまむ、ほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ、二十に「家おもうといをねずおれば、たずがなくあしべも見えず春の霞に、なおあり。大かたこのたぐいの居は、ただ一わたり軽くつねに云うとはかわりて、夜る寝ずに、起きて居る意なり。軽く見るべからず。
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