玉勝間 / 一の巻 濁る音無き歌
古今集に、同じもじ無き歌と云ふあり。そのたぐひにて云はば、にごるこゑ無き歌もまま有るものなり。「音羽山おとにききつつ相坂の關のこなたに年をふるかな「こむ世にもはやなりななむめのまへにつれなき人を昔と思はむ、などなり。猶有べし。
新字:古今集に、同じもじ無き歌と云ふあり。そのたぐひにて云はば、にごるこゑ無き歌もまま有るものなり。「音羽山おとにききつつ相坂の関のこなたに年をふるかな「こむ世にもはやなりななむめのまへにつれなき人を昔と思はむ、などなり。猶有べし。
書き下し
古今集に、同じもじ無き歌と云うあり。そのたぐいにて云わば、にごるこえ無き歌もまま有るものなり。「音羽山おとにききつつ相坂の関のこなたに年をふるかな「こむ世にもはやなりななむめのまえにつれなき人を昔と思わむ、などなり。なお有るべし。
現代語訳
古今集に「同じ文字なき歌」というものがある。その類で言えば、濁る音のない歌もときどきあるものである。「音羽山の名のように噂に聞きながら、逢坂の関のこちら側で(あなたに逢えず)年を過ごしていることだ」、「来世に早くなってほしい。目の前でつれない人を、昔の人と思えるように」などである。まだほかにもあるだろう。
解説
歌の遊びにまつわる小さな発見を記した段である。古今集には、一首の中で同じ仮名を二度使わない「同じ文字なき歌」がある。宣長はそれにならって、濁音が一つもない歌もときどきあると指摘し、在原元方の「音羽山」の歌などを例に挙げる。当時の仮名は濁点を書かなかったので、書いた姿では濁音の有無は見えない。声に出して詠んだときにだけ分かる特徴に気づいたところに、歌を耳で味わう宣長の感覚が表れている。「なお有るべし」と結ぶのは、読者にも探してみよという誘いであろう。古典の歌を、意味だけでなく音の響きから味わってみると、また違った面白さが見えてくる。
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 古今集の長歌の事古今集の長歌、はじめに載せたるは、いといとつたなし。その歌に、なにしかも人をうらみむと云えること、上下にあいあづからざる事なり、この二句をのぞきて善けん。また一うたのうちに、思と云う詞九つ有りて、いと耳かしかましき中に、けなばけぬべく思えどもと云える事さえ、二所に重なりて有るはいかにぞや。思えどもと云う句は、なお今一つあり。また思いは深しと云える句、またとぢめの二句などは、ちからなく聞こえて漂よわし、次に貫之の歌、目録ならんからに、事の続きざま、むげにことわり無し。忠岑は一ふし有りて聞こゆ。躬恒、なにのふしも無し。伊勢は中によろし。そもそも斯くあげつらうは、いとおおけなけれど、なおえあらでなん。
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『玉勝間』二の巻 古今集月の歌の事月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雑の部に入れり。秋の部にはただ五首入れて、そは秋と云う事ある歌、また雁を詠み入れたるなどのみなり。
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『玉勝間』四の巻 歌合よみ人の名をかくす事同書に、法性寺殿(忠通公)の御事を云えるところに、まだおさなくおわしましし時より、歌合など朝ゆうの御あそびにて、基俊・俊頼など云う、時の歌詠みどもに、名かくして判せさせなど、せさせ給う事、たえざりけり、と云えり。名かくすとは、詠み人の名か、判者の名か。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事古えことばの清濁を考うるに、今の世に云うとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云うに、古事記・書紀・万葉は、かな遺いいと正しくして、清濁をも分けて書きたれば、これらの書によりて知るべし。この三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に万葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混いたるも多けれど、なべてはよく分かれたり。万葉は混いすくなし。古事記は、まがいたるはおさおさ見えず。たがえるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思えば、後に写し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云うとは、ことなるも多きを、人皆、通わし書きたりと思い、あるは混いたるなりと思い、あるは濁る音には、清音の字をも書ける例なり、など思いおるは、くわしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古と今と、云う言の清濁のかわれるなり。然か云う故は、たとえば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて読みならえれども、この仮字、古事記にも書紀にも出で、万葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用いて、濁音を用いたる事無し。
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