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玉勝間 / 十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例

萬葉集に、山字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の卷に、三吉野乃玉松之枝者云云、十五の卷に、夜麻末都可氣爾ともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、此歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云ふことは、有る事無し。又同じ二の卷に、人者縦念息登母玉蘰影爾所見乍云云、こは山蘰は、日影葛のことにて、影の枕詞に置けるなり。山蘰日影とつづく意にて、十四の卷に、あしひきの山かづらかげと詠めるかげに同じ。十八の卷にも、かづらかげと有〃、みなかげは日影ノ蘰の事なり。然るを後ノ世に、此玉蘰を、山蘰の誤りなる事を知らずして、影と續きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の卷に、五十串立云云雲聚玉蔭見者乏文、こは髻華に垂たる日影ノ蘰なり。十六の卷に、足曳之玉蘰之兒とあるは、足曳之とあれば、山なること論無し。卽チ玉久世清河原云云と云ふ歌も、ならべる歌には、山蘰之兒とあり。さて件の例どもによりて思へば、十一の卷に、山代久世能河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脫せるにこそ。玉久世と云ふことは、有るべくも覺えず。

新字:万葉集に、山字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、三吉野乃玉松之枝者云云、十五の巻に、夜麻末都可気爾ともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、此歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云ふことは、有る事無し。又同じ二の巻に、人者縦念息登母玉蘰影爾所見乍云云、こは山蘰は、日影葛のことにて、影の枕詞に置けるなり。山蘰日影とつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かづらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かづらかげと有〃、みなかげは日影ノ蘰の事なり。然るを後ノ世に、此玉蘰を、山蘰の誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、五十串立云云雲聚玉蔭見者乏文、こは髻華に垂たる日影ノ蘰なり。十六の巻に、足曳之玉蘰之児とあるは、足曳之とあれば、山なること論無し。即チ玉久世清河原云云と云ふ歌も、ならべる歌には、山蘰之児とあり。さて件の例どもによりて思へば、十一の巻に、山代久世能河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云ふことは、有るべくも覚えず。

書き下し

万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。

現代語訳

『万葉集』には、「山」の字を「玉」と書き誤った例が多い。草書では「山」と「玉」がよく似ているからである。巻二の「三吉野の玉松の枝は」云々は、巻十五に「やままつかげに」ともあって、「玉」が「山」の誤りであることは明らかである。それなのに後世の歌に「玉松」と詠んでいるのは、この歌によったもので、みな誤りである。「玉松」という言葉は存在しない。また同じ巻二の「人はたとえ思いが止んでも、玉かずらのように面影に見え続けて」云々は、「山かずら」のことで、山かずらは日陰のかずら(ヒカゲノカズラ)のことであり、「影」の枕詞として置いたものである。「山かずら日かげ」と続く意味で、巻十四に「あしひきの山かずらかげ」と詠んだ「かげ」と同じである。巻十八にも「かずらかげ」とあって、どれも「かげ」は日陰のかずらのことである。それなのに後世、この「玉かずら」が「山かずら」の誤りであることを知らずに、「影」と続くのを「懸け」の意味だと理解したのは誤りである。また巻十三の「斎串を立て……雲聚の玉蔭を見ると心ひかれる」は、髪飾りに垂らした日陰のかずらである。巻十六に「あしひきの玉かずらの児」とあるのは、「あしひきの」とあるからには「山」であることは論じるまでもない。そして「玉久世の清い河原」云々という歌も、並んでいる歌には「山かずらの児」とある。さて、これらの例から考えると、巻十一の歌はもと「山代の久世の河原」であったのを、「山」を「玉」に、「能(の)」を「清」に誤り、「代」を脱落させたのであろう。「玉久世」という言葉は、あるはずもないと思われる。

解説

写本の段階で草書の「山」が「玉」と誤読された例を、『万葉集』から集めた段である。宣長は「玉松」「玉かずら」などの語を、別の巻の仮名書きや枕詞の続き方と照らし合わせて「山」の誤りと断じ、後世の歌人がその誤った字面をそのまま歌語として使い続けたことを批判する。とくに「玉かずら影」を「懸け」と解した通説は、もとの「山かずら日かげ」という続きを知らないための誤解だとする。字の形の似通いという点と、用例という内側の証拠の両方から本文を正すのが、宣長の本文批判の方法である。誤った字がいったん権威ある歌集に載ると、それが新しい言葉として独り歩きしてしまう。出典を引くときは、その出典自体が正しく伝わっているかを疑う必要があることを示している。

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