玉勝間 / 九の巻 大野の石仏
初瀨より、伊賀の名張へ行くあひだに、大野寺と云ふに、いと高く大きなる石に、佛のかたゑりたる有り。承元三年三月七日、上皇御幸長谷寺、並宇多郡內大野石佛と有るは、此所なり。上皇は、後鳥羽ノ天皇なり。
新字:初瀨より、伊賀の名張へ行くあひだに、大野寺と云ふに、いと高く大きなる石に、仏のかたゑりたる有り。承元三年三月七日、上皇御幸長谷寺、並宇多郡内大野石仏と有るは、此所なり。上皇は、後鳥羽ノ天皇なり。
書き下し
初瀬より、伊賀の名張へ行くあいだに、大野寺と云うに、いと高く大きなる石に、仏のかたえりたる有り。承元三年三月七日、上皇長谷寺に御幸し、並びに宇多郡内の大野の石仏と有るは、この所なり。上皇は、後鳥羽の天皇なり。
現代語訳
初瀬から伊賀の名張へ行く途中に、大野寺という寺があり、たいそう高く大きな岩に、仏の姿を彫ったものがある。承元三年(1209)三月七日に「上皇が長谷寺に御幸され、あわせて宇陀郡の大野の石仏にも」とあるのは、この場所のことである。上皇とは後鳥羽天皇のことである。
解説
大和の大野寺にある、岩壁に彫られた大きな仏の像について記した段である。初瀬から伊賀の名張へ抜ける道筋にあり、伊勢と大和を行き来する者には身近な場所であった。宣長はこの石仏を、承元三年に後鳥羽上皇が長谷寺に参詣した折に立ち寄ったという記録と結びつけている。この磨崖仏は鎌倉時代の初めに刻まれたもので、上皇の御幸はその完成に関わるものと考えられている。目の前にある物と文献の記事を突き合わせ、ここがあの記録の場所だと確かめる。宣長の名所の考証はいつもこの形をとる。古い書物の一行が、今も道ばたに残る物と重なった時、歴史は急に身近なものになる。
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 さぬきの国の山の谷なるあやしきゑり物大和国つぼ坂寺のおくなる山に、五百羅漢のかたとて、石に数百の人のかたを彫りたるあり。或る人の云えるは、これを俗に羅漢としも云うは、あらぬことなり。よく見れば、みな上つ代の人の形なり、神の御しわざと見えたりと云えり。おのれ未だ見ざれども、まことにさぞ有らむとぞ覚ゆる。すべて古き神の御像、またさらぬをも、世にはみなおしなべて、仏のかたと思える多し。また物の形など石にえりたるが、あやしく何ともわきまえ難きなど、世に多かるを見れば、上つ代には、くさぐさ石に物える事の、多かりしなり。神代のしわざをも、今まのあたり見るべき物は、石のみぞ有りける。讃岐の国に、その所の名聞きつるを、忘れたり。いと広き谷ひと谷に、有るかぎりの岩、一つもおちず、大きなるにも小さきにも、ことごとく仏のかたを彫りたる所ありて、その数かぞえ尽くすべからずとぞ。或る人そのさまをよく見て、あまりあやしさに、石工にはからせたるに、大かた日毎に数百人の石つくりをして、三十年ばかりの月日を経て、えらしめずは、かくまでは成し得じ。
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『玉勝間』六の巻 さぬきの国の山の谷なるあやしきゑり物またかばかり高く大きなる、数十似のいわおどもには、まずその足代を構えんばかりも、かたき業なるべければ、このたくみ、さらに人の力の及ぶべきかぎりに有らずと云いけりとぞ。いともあやしくくすしき事にぞ有りける。いずれの郡に、何と云う山の谷ぞ、いま一たび所をも聞き定めて、なおよく尋ぬべきことなり。土人は、弘法大師のえれると、云い伝えたりとぞ。おのれこの事を聞きて思うに、まずすべて国々に、あやしき物と云えば、みな弘法のしわざと云うは、常の事にて、そはもとより論うにも足らず。また仏のかたと思うも、例のひがことにて、これはた神代の人の形にて、神の造り給える物とこそ覚ゆれ。行きて見ん人、なおよく考えて定めてよ。すべて国々に、こうようのあやしき所の有るには、必ず世々の法師ども、あらたに手を加えて仏ざまにしなして、例の世の人をあざむくたぐいも多かるを、心してなまどわされそ。
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『玉勝間』四の巻 小野道風が書る古今集安元二年太上天皇の五十の御賀の記に云わく、中宮の御方のおくり物に、みちかぜが書きたる古今を奉らせ給う。
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『玉勝間』十四の巻 奈良の大仏ノ像より露流れ落ヲし事外記日記に、長保四年十月一日、云云、次に陰陽寮を陣の腋に召して、御占有り、これ東大寺の大鐘、九月二十一日巳の時、湿水露の如く流れ、申の刻、大仏の御身悉く潤湿し、頭より露の如くして降り水の流るるが如しという、蓮花座上の解文に依るなり。
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『玉勝間』八の巻 道者伊勢にて、他国の参宮人を、道者と云えり。小朝熊の社神鏡沙汰文の中に、天福二年の文書の言に、熊野詣の道者、下総の国白井の郡の住人、南無妙房と有り。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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