玉勝間 / 十三の巻 芳宜ノ花の宴
續後紀に、承和元年八月己卯朔庚寅、上曲宴〓涼殿、號曰芳宜花講、賜近習以下至近衛將監祿、有差。また同十一年八月辛巳朔、天皇御紫宸殿、覽芳宜花、宴老臣。皆有復古之歎、日暮、賜五位已上衣被有差。
新字:続後紀に、承和元年八月己卯朔庚寅、上曲宴〓涼殿、号曰芳宜花講、賜近習以下至近衛将監禄、有差。また同十一年八月辛巳朔、天皇御紫宸殿、覧芳宜花、宴老臣。皆有復古之嘆、日暮、賜五位已上衣被有差。
書き下し
続後紀に、承和元年八月己卯朔庚寅、上清涼殿に曲宴す、号して芳宜花講と曰う、近習以下近衛将監に至るまで禄を賜うこと、差有り。また同十一年八月辛巳朔、天皇紫宸殿に御し、芳宜の花を覧て、老臣を宴す。皆復古の歎有り、日暮れて、五位已上に衣被を賜うこと差有り。
現代語訳
『続日本後紀』に、「承和元年八月十二日、仁明天皇が清涼殿で内々の宴を催され、これを萩の花の会と名づけた。近習の者から近衛将監に至るまで、身分に応じて禄を賜った」、また「同十一年八月一日、天皇は紫宸殿にお出ましになり、萩の花を御覧になって老臣たちに宴を賜った。みな昔を懐かしむ感慨があった。日が暮れて、五位以上の者に身分に応じて衣を賜った」とある。
解説
仁明天皇が萩の花を愛でる宴を催したという記事を写した段である。「芳宜」は萩の古い表記で、清涼殿での宴は「芳宜花講」と名づけられた。前の段の嵯峨天皇の花宴に続き、宮中で季節の花を観賞する行事の古い例である。春の桜に対して秋の萩の宴があったことは、古代の人々が四季折々の花に心を寄せていたことを示している。萩は『万葉集』で最も多く詠まれた花で、秋を代表する花として親しまれた。老臣たちが萩を見て昔を懐かしんだという記述には、花が人の思い出と結びつく情感が表れている。季節の移ろいを花によって感じ取り、人と分かち合う風雅は、今の私たちの暮らしにも受け継がれている。
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