玉勝間 / 十三の巻 六角堂焼亡
同記に、同年十二月八日庚寅云云、丑尅、六角東洞院、有炎上、火出隆季朝臣宅、六角堂爲灰燼、但觀音靈像奉出了、件像、上宮太子隨身持佛也、昔奉懸多羅木、今在堂中云云。
新字:同記に、同年十二月八日庚寅云云、丑尅、六角東洞院、有炎上、火出隆季朝臣宅、六角堂為灰燼、但観音霊像奉出了、件像、上宮太子随身持仏也、昔奉懸多羅木、今在堂中云云。
書き下し
同記に、同年十二月八日庚寅云云、丑の尅、六角東洞院、炎上有り、火隆季朝臣の宅より出ず、六角堂灰燼と為る、但し観音の霊像は出だし奉り了んぬ、件の像は、上宮太子の随身の持仏なり、昔多羅木に懸け奉り、今堂中に在りと云云。
現代語訳
同じ記録に、「同年十二月八日庚寅云々、丑の刻(午前二時ごろ)、六角東洞院で火事があった。火は藤原隆季朝臣の邸から出た。六角堂は灰燼となった。ただし観音の霊像は運び出し申し上げた。この像は聖徳太子が身につけておられた持仏である。昔は多羅の木に懸け申し上げ、今は堂の中にあるという云々」とある。
解説
京都の六角堂が隣家からの火で焼けたが、本尊の観音像は運び出されたという記録である。六角堂は頂法寺の本堂で、聖徳太子の創建と伝えられ、太子が水浴の間に木に掛けておいた念持仏の観音が動かなくなったので、そこに堂を建てたという縁起がある。記事に見える「多羅木に懸け奉り」は、この縁起を踏まえたものである。後に親鸞がここに百日籠もって夢告を受けたことでも名高い。宣長は論評を加えていないが、京の町中の寺が火災に見舞われながらも、本尊だけは人の手で守られてきたことを伝える記録として書き留めたのであろう。建物は何度焼けても、人々が守り継いできた信仰の中心は失われなかったのである。
関連する章句
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