玉勝間 / 四の巻 鳥羽離宮
百練抄云、寛治元年二月五日、上皇遷御鳥羽離宮、營作甫就之故也、云云、件地、本是備前守季綱朝臣領也、去年進上之、讃岐守泰仲、造進舍屋。
新字:百練抄云、寛治元年二月五日、上皇遷御鳥羽離宮、営作甫就之故也、云云、件地、本是備前守季綱朝臣領也、去年進上之、讃岐守泰仲、造進舎屋。
書き下し
百練抄に云う、寛治元年二月五日、上皇鳥羽離宮に遷御す、営作甫めて就るの故なり、云々、件の地、本はこれ備前守季綱朝臣の領なり、去年これを進上す、讃岐守泰仲、舎屋を造り進ず。
現代語訳
百練抄に言う。「寛治元年(1087年)二月五日、上皇(白河上皇)が鳥羽離宮にお移りになった。造営がようやく完成したためである」云々。「この地は、もとは備前守季綱朝臣(藤原季綱)の領地であった。去年これを献上した。讃岐守泰仲(高階泰仲)が建物を造って献上した」。
解説
百練抄から、鳥羽離宮の完成と白河上皇の移り住みを記す記事を抜いた一段である。寛治元年、白河上皇は完成したばかりの鳥羽離宮に移った。その土地はもと藤原季綱の領地で、前年に献上され、讃岐守高階泰仲が建物を造って献上した、という。白河上皇は前年に譲位して院政を始めており、都の南、鴨川と桂川の合流点に近い地に営まれた鳥羽離宮は、院政の拠点の一つとなった。受領と呼ばれる地方官たちが、私財を投じて上皇に土地や建物を献上し、引き立てを得たことも、この記事からうかがえる。宣長は評を加えず記事を写すだけだが、今鏡から白河院の話を続けて拾ってきた流れの中で読むと、院政期の権力の姿が浮かび上がる。離宮の由来一つにも、時代の仕組みが映っている。
関連する章句
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