玉勝間 / 六の巻 一条天皇かくれさせ給ひて後御手箱に在ける宸筆の物の事
一條院うせさせ給ひて後、御堂殿御遺物共のさだ有けるに、御手箱の有けるを、ひらき御覽じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、書かせおはしましたりけるを、はじめに三光欲明覆重雲大精暗とあそばされたりけるを、御覽じて、次さまを讀ませたまはで、やがて卷きこめて、燒きあげられにけりとこそ。宇治殿は、隆國(宇治大納言)には語らせ給ひけると、隆國は記して侍るなれ。
新字:一条院うせさせ給ひて後、御堂殿御遺物共のさだ有けるに、御手箱の有けるを、ひらき御覧じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、書かせおはしましたりけるを、はじめに三光欲明覆重雲大精暗とあそばされたりけるを、御覧じて、次さまを読ませたまはで、やがて巻きこめて、焼きあげられにけりとこそ。宇治殿は、隆国(宇治大納言)には語らせ給ひけると、隆国は記して侍るなれ。
書き下し
一条院うせさせ給いて後、御堂殿御遺物どものさだ有りけるに、御手箱の有りけるを、ひらき御覧じけるに、宸筆の宣命めかしき物を、書かせおわしましたりけるを、はじめに三光明らかならんと欲するに、重雲覆いて大精暗しとあそばされたりけるを、御覧じて、次さまを読ませたまわで、やがて巻きこめて、焼きあげられにけりとこそ。宇治殿は、隆国(宇治大納言)には語らせ給いけると、隆国は記して侍るなれ。
現代語訳
一条院がお亡くなりになった後、御堂殿(藤原道長)が遺品の整理をなさったところ、御手箱があったので開いてご覧になると、天皇ご自筆の宣命めいたものを書いておられて、その初めに「日月星の三光は明らかであろうとするのに、重なる雲が覆って、大いなる光は暗い」とお書きになっていたのをご覧になって、その続きをお読みにならず、そのまま巻き込めて焼いてしまわれたということだ。宇治殿(藤原頼通)は、これを隆国(宇治大納言、源隆国)にお語りになったと、隆国は記している。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽の勝光明院の宝物の事久安二年八月廿三日庚申、是の日、法皇鳥羽の勝光明院の宝蔵に納むる所の宝物を御覧じ、即ち目録を書かるる事有り、件の目録は、先年白川の御所炎上の時、焼失するなり。顕密の聖〓、古今の典籍、道具書法、弓剣管絃の類、皆是れ往代の重宝なり。と同じ書に見えたり。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』二の巻 内裏焼神鏡焼損事寛弘二年十一月十五日子の刻ばかり云云、内裏焼亡す云云、火は温明殿より起こる、神鏡(所謂恐所)大刀契、啓して取り出だすこと能わず云云、云云十七日云云、神鏡焼損の事を定め申す云云、神鏡・大刀并びに契書焼亡す、鏡は僅かに帯有りて、自余は焼損して円規無く、鏡の形を失う云云、村上御記に云う、天徳四年九月廿四日焼亡云云、廿四日重光朝臣申して云う、温明殿に罷り到りて求むる所、瓦の上に鏡一面在るを見る、(其の鏡径八寸、頭に一疵有りと雖も、専ら損無し)円規并びに帯等、甚だ以て分明なり、縁の破れ瓦の上に露出す、之を見る者驚き威ぜざるは無し云云、廿五日、〓遠・伊陟等合わせ申す、また焼けたる鏡一面を求め得たり云云、故殿の御日記に云う、恐所は火灰燼の中に在りと雖も曾て焼損せず云云、(鏡三面の中、伊勢大神、紀伊国日前国懸云云、件の説の如くんば三面云云、十二月九日、左頭中将来たりて立ちながら云う、今日酉の刻、神鏡太政官より東三条院に移し奉る、其の事に供奉すべし者(てえり)、云云、十日頭中将示し送りて云う、神鏡昨移し奉る、但し旧き御韓櫃を開きて持ち、新しき辛櫃に納め奉る間、忽然として日光の照耀するが如きこと有り、内侍女官等同じく見る、神験猶新たなり、最も是れ恐れ驚くに足る者(てえり)、と同記に見えたり。
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