玉勝間 / 十三の巻 鳥羽ノ法皇崇徳上皇熊野御幸御出立の事
同記に、同二年二月五日壬辰、今日兩上皇令參詣熊野給。寅尅御進發、權僧正覺宗、爲兩方御先達、法皇白布御淨衣、同頭巾、絹小袈裟、令持御杖給。上皇、白生絹御淨衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、權中納言藤公能卿、參議同〓長朝臣、扈從上皇御共、云云、三月四日辛酉、兩院自熊野還御、法皇不令參稻荷給、直入御鳥羽殿、去比法印圓行入滅、若依件事歟。件人、雖稱白河院御子、頗有疑殆云云。晏駕之昔、有議不籠御忌云云。上皇令參稻荷給畢と有リ。これを見れば、熊野御幸よりかへらせ給ひては、稻荷ノ社に詣テ給ひてさて御所に入らせ給ふ例にや有けむ、尋ぬべし。
新字:同記に、同二年二月五日壬辰、今日両上皇令参詣熊野給。寅尅御進発、権僧正覚宗、為両方御先達、法皇白布御浄衣、同頭巾、絹小袈裟、令持御杖給。上皇、白生絹御浄衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、権中納言藤公能卿、参議同〓長朝臣、扈従上皇御共、云云、三月四日辛酉、両院自熊野還御、法皇不令参稲荷給、直入御鳥羽殿、去比法印円行入滅、若依件事歟。件人、雖称白河院御子、頗有疑殆云云。晏駕之昔、有議不籠御忌云云。上皇令参稲荷給畢と有リ。これを見れば、熊野御幸よりかへらせ給ひては、稲荷ノ社に詣テ給ひてさて御所に入らせ給ふ例にや有けむ、尋ぬべし。
書き下し
同記に、同二年二月五日壬辰、今日両上皇熊野に参詣せしめ給う。寅の尅御進発、権僧正覚宗、両方の御先達と為る、法皇白布の御浄衣、同じく頭巾、絹の小袈裟、御杖を持たしめ給う。上皇、白生絹の御浄衣、(狩衣袴)脛巾藁履御杖等、権中納言藤公能卿、参議同〓長朝臣、上皇の御共に扈従す、云云、三月四日辛酉、両院熊野より還御、法皇稲荷に参らしめ給わず、直ちに鳥羽殿に入御す、去る比法印円行入滅す、若しくは件の事に依るか。件の人、白河院の御子と称すと雖も、頗る疑殆有りと云云。晏駕の昔、議有りて御忌に籠らずと云云。上皇稲荷に参らしめ給い畢んぬと有り。これを見れば、熊野御幸よりかえらせ給いては、稲荷の社に詣で給いてさて御所に入らせ給う例にや有りけむ、尋ぬべし。
現代語訳
同じ記録(外記局日記)に、「同二年二月五日壬辰、今日、両上皇(鳥羽法皇と崇徳上皇)が熊野に参詣された。寅の刻(午前四時ごろ)に御出発、権僧正覚宗が両方の御先達を務めた。法皇は白布の御浄衣に同じく白い頭巾、絹の小袈裟で、御杖を持たせられた。上皇は白い生絹の御浄衣(狩衣と袴)に脛巾・藁沓・御杖などで、権中納言藤原公能卿・参議藤原某長朝臣が上皇のお供をした云々。三月四日辛酉、両院が熊野からお帰りになった。法皇は稲荷社に参詣なさらず、直接鳥羽殿にお入りになった。先ごろ法印円行が入滅したので、あるいはその事によるのであろうか。この人は白河院の御子と称していたが、たいへん疑わしいところがあったという云々。白河院崩御の昔、議論があって御忌に籠もらなかったという云々。上皇は稲荷社に参詣なさった」とある。これを見ると、熊野御幸からお帰りになっては、稲荷の社に詣でられてから御所にお入りになるのが例であったのだろうか。調べてみるべきである。
解説
関連する章句
-
『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
-
『玉勝間』七の巻 不如闕礼仏之勤全敬神之忠との詔同記に、同四年九月十七日、今日春日若宮祭、仍りて念珠を取らず、私に堂に入ることを得ず、京師より奉幣す、云々、礼拝の時に及びて、余に詔して曰く、汝神斎有り、拝すべからざるか、対えて曰く、君の前に何ぞ私の斎を以て礼を闕かんや、また詔して曰く、奏する所礼の意に合う、然れども今は正礼を行う所の処に非ず、仏を礼するの勤めを闕きて、神を敬うの忠を全うするに如かず、余詔旨に従う、と見えたり。詔は鳥羽の法皇の詔なり。こは法皇天王寺に御幸ありて、彼の寺におわしましける時、頼長公も御共にて、さぶらい給えるほどの事なり。然る仏事の御おりしも、さすがに神わざを、やむことなくおぼしめしたる詔の、尊くおぼえ奉るままに、しるしつ。
-
『玉勝間』二の巻 行成記書写の事同記に云う、久安五年十一月廿六日、召しに依りて早く鳥羽殿に参る、法皇北殿に御す、権弁以下執筆の輩十余人、同じく召しに応じて参候するなり、権大納言行成の記、正暦以後五十余巻、御所の近辺に於て之を書写せらる、時時御簾の中に出〓して、叡覧を経、終日書写す、或いは晩頭に退出す、下官本新共に御所に返上して退出し了んぬ、廿七日、早旦鳥羽殿に参る云云、今日下官十五枚書き了んぬ、返上す、晩頭に帰京す、廿八日、早朝鳥羽殿に参る、書写の功昨日の如し云云。
-
『神皇正統記』巻五 第七十四代 鳥羽院第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにましましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくましましければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おましましき。
-
『玉勝間』十の巻 定家ノ中納言の詩明月記、建仁元年十月、上皇熊野御幸の供奉の所に、十五日午の時ばかり、発心門に着き、南無房の宅に宿る。この道の間、常に筆硯を具せず、また思う所有りて、未だ一事をも書かず。この門の柱に、始めて詩一首を書く、(角柱を異にす、閑所なり)慧日の光の前に罪根を懺い、大悲の道の上の発心門、南山の月の下の結縁の力、西刹の雲の中に旅魂を弔う。
-
『玉勝間』十二の巻 後鳥羽天皇践祚即位の御事この即位の御事、同じ記に、かえすがえす論あり。その大むねは止む事をえず、立王の御事は有りといえども、即位の礼を行わるる事にいたりては、三種の神宝の御帰京を待ち給うべきわざなりとなり。その中に、剣璽を帯びずして、即位の例出で来なば、後代乱逆の基、ただこの事に在るべし、と云う語あり。この一こと、ちよろずのこがねにも替え難く、いともいとも尊くなむ。法皇は、後白川の天皇、主上は、安徳天皇、三の宮は、守貞親王、後高倉の院と申す。三条の宮は、以仁王、世に高倉の宮と申す。入道関白は松殿基房公、摂政は、普賢寺殿基通公、左大臣は、大炊御門殿経宗公、右大臣は、すなわちこの玉海記し給える、月の輪殿兼実公なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る