玉勝間 / 十三の巻 おのが京のやどりの事
のりなが、享和の初めのとし、京にのぼりて在し程、宿れりし所は、四條ノ大路の南づらの、鳥丸のひむかしなる所にぞ有けるを、家はやや奧まりてなむ有ければ、物のけはひうとかりけれど、朝のほど夕暮などには、門に立出つつ見るに、道も廣く晴晴しきに、行きかふ人しげく、いとにぎははしきは、ゐなかに住なれたるめうつし、こよなくて、めさむる心地なむしける。京と云へど、なべては斯くしも有らぬを、此四條、大路などは、殊ににぎははしくなむありける。天の下三ところの大都の中に、江戶大坂は、あまり人の行きき多く、らうがはしきを、よき程のにぎはひにて、萬づの社社寺寺など、古、のよし有る多く、思ひなしたふとく、すべて物きよらに、萬づの事みやびたるなど、天ノ下に、住ままほしき里は、さは云へど京をおきて、外には無かりけり。
新字:のりなが、享和の初めのとし、京にのぼりて在し程、宿れりし所は、四条ノ大路の南づらの、鳥丸のひむかしなる所にぞ有けるを、家はやや奥まりてなむ有ければ、物のけはひうとかりけれど、朝のほど夕暮などには、門に立出つつ見るに、道も広く晴晴しきに、行きかふ人しげく、いとにぎははしきは、ゐなかに住なれたるめうつし、こよなくて、めさむる心地なむしける。京と云へど、なべては斯くしも有らぬを、此四条、大路などは、殊ににぎははしくなむありける。天の下三ところの大都の中に、江戸大坂は、あまり人の行きき多く、らうがはしきを、よき程のにぎはひにて、万づの社社寺寺など、古、のよし有る多く、思ひなしたふとく、すべて物きよらに、万づの事みやびたるなど、天ノ下に、住ままほしき里は、さは云へど京をおきて、外には無かりけり。
書き下し
のりなが、享和の初めのとし、京にのぼりて在りし程、宿れりし所は、四条の大路の南づらの、烏丸のひむかしなる所にぞ有りけるを、家はやや奥まりてなむ有りければ、物のけわいうとかりけれど、朝のほど夕暮れなどには、門に立ち出でつつ見るに、道も広く晴れ晴れしきに、行きかう人しげく、いとにぎわわしきは、いなかに住みなれたるめうつし、こよなくて、めさむる心地なむしける。京と云えど、なべてはかくしも有らぬを、この四条の大路などは、殊ににぎわわしくなむありける。天の下三ところの大都の中に、江戸大坂は、あまり人の行きき多く、ろうがわしきを、よき程のにぎわいにて、万ずの社社寺寺など、古のよし有る多く、思いなしとうとく、すべて物きよらに、万ずの事みやびたるなど、天の下に、住ままほしき里は、さは云えど京をおきて、外には無かりけり。
現代語訳
私宣長が、享和の初めの年(享和元年)に京に上っていた間、宿としていた所は、四条大路の南側、烏丸の東の所であったが、家は少し奥まっていたので、外の気配は遠かったけれど、朝のうちや夕暮れなどに門に出て眺めると、道も広く晴れ晴れとしていて、行き交う人が多く、たいへんにぎやかなのは、田舎に住み慣れた目には格別で、目が覚めるような心地がした。京といっても、どこもこうであるわけではないが、この四条大路などはとりわけにぎやかであった。天下の三つの大都の中で、江戸と大坂はあまりに人の行き来が多く騒がしいが、京はほどよいにぎわいで、多くの神社や寺など、古いいわれのあるものが多く、思いなしか尊く、すべてが清らかで、万事が雅やかであるなど、天下に住みたいと思う里は、そうはいっても京をおいてほかにはなかった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうおのれいときなかりし程より、書を読む事をなむ、よろずよりも面白く思いて、読みける。さるははかばかしく師に附きて、わざと学問すとにも有らず、何と心ざす事も無く、そのすじと定めたるかたも無くて、ただからのやまとの、くさぐさのふみを、有るにまかせ、うるにまかせて、古き近きをも云わず、何くれと読みけるほどに、十七八なりし程より、歌詠ままほしく思う心いできて、詠みはじめけるを、それは師に従いて、学べるにも有らず、人に見する事などもせず、ただひとり詠み出ずるばかりなりき。集どもも、古き近きこれかれと見て、かたの如く今の世の詠みざまなりき。斯くてはたちあまりなりし程、学問しにとて、京になんのぼりける。さるは十一の年、父におくれしにあわせて、江戸に在りし、家のなりわいをさえに、失いたりし程にて、母なりし人のおもむけにて、くすしのわざを習い、またそのために、世のつねの儒学をもせむとてなりけり。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢国かくて松坂は、殊によき里にて、里のひろき事は、山田につぎたれど、富める家おおく、江戸に店と云う物をかまえ置きて、手代と云う物を多くあらせて、商いせさせて、あるじは、国にのみ居てあそびおり。うわべはさしもあらで、うちうちはいたく豊かにおごりてわたる。すべてこの里、町すじゆがみ正しからず、家なみ悪ろく、一つごとに一尺二尺ずつ出入りてひとしからず、いといとしどけなし。家居はさしもいかめしからず。されど内々のすまいはいとよし。水は良き所と悪ろき所と有りてひとしからず。川水すくなく潮もささねば、船通わず。山へは、大方一里あまり、海へは、半里あまり、諸国のたよりよし。ことに京江戸大坂はたよりよし。諸国の人の入り来る国なれば、いずこへもいずこへも便りよし。人の心は善くもあらず、奢りてまこと少なし。人のかたち、男も女もいなかびたる事更に無くよろし。女は里のゆたかににぎわわしきままにすがたよそいよし。すべておさおさ京におとれる事無し。人の物云いは、尾張の国より東の国々はなまり多きを、伊勢は、大かたなまり無し。されど山城大和などとは、何と無く声いやしく、詞もいやしきこと多し。
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『玉勝間』六の巻 大和大路同じ記、仁治三年の所に、大和大路と見えたり。明月記にも見ゆ。すなわち今の、川東なる大和大路なるべし。
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『玉勝間』六の巻 東京西京平安城は、東西の京を置かれしかども、はじめより今のごとく、東の京のみ栄えて、西の京は栄えざりしにや、慶保胤の池亭記に、予二十年以来、東西の二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に幾し。人は去る有りて来る無く、屋は壊るる有りて造る無し、と有り。
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『玉勝間』七の巻 祇園の西門の前の大路の在家百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去る夜祇園の西大門の前の大路の在家、南北両面、地を払いて焼亡す、西は橋爪に及び、東は今大路に至り、南は綾小路の末を限る、百数家に及ぶ、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨の天皇の御世なり。
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『玉勝間』四の巻 土御門ノ内裏土御門の内裏は、土御門の南、烏丸の西と、拾芥抄に見えたり。ある書に、光厳院より、後奈良院まで、この内裏にましませりと云えり。明応凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車の路次、正親町を西に行き、室町を南に行き、近衛を東に行く云々と見え、また二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如くなり。然ればそのころは、北へ広かりて、一条の南づらまでも、内裏なりしにや。さる故にその西表の御門、正親町に有りて、それより出で給いしなるべし。また同じ帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有りしよしなり。されば御所は時々にすこしずつ地かわりて、ここかしこに有りしかども、皆同じ廓の内にてぞ有りつらん。さて今の内裏は、正親町院の御世、信長公・秀吉公などの時に、造営せられし地なるべし。これも土御門の内裏の外廓の、ようように東へ北へ広くなりて、今の世の外廓とはなれりとおぼしければ、なお同じ廓の内なり。さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御証にもつけ奉られたるにやと、これも或る人云えり。中原の康富の記に、文安元年九月二十八日云々、去年九月二十三日炎上せし内裏の御門四足、(土御門東洞院の面、左衛門陣と号す、)云々。文安は、後花園の天皇の御世なり。
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