玉勝間 / 四の巻 土御門ノ内裏
土御門ノ内裏は、土御門ノ南、烏丸ノ西と、拾芥抄に見えたり。或書に、光嚴院より、後奈良院まで、此內裏にましませりと云へり。明應凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車路次、正親町西行、室町南行、近衞東行云云と見え、又二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如くなり。然ればそのころは、北へ廣かりて、一條の南づらまでも、内裏なりしにや。さる故にその西表の御門、正親町に有て、それより出給ひしなるべし。又同シ帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有しよしなり。されば御所は時時にすこしづつ地かはりて、ここかしこに有しかども、皆同じ廓の內にてぞ有りつらん。さて今の內裏は、正親町院の御世、信長公秀吉公などの時に、造營せられし地なるべし。これも土御門ノ内裏の外廓の、やうやうに東へ北へ廣くなりて、今ノ世の外廓とはなれりとおぼしければ、猶同じ廓の内なり。さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御諡にもつけ奉られたるにやと、これも或人云へり。中原ノ康富ノ記に、文安元年九月廿八日云云、去年九月廿三日炎上内裏之御門四足、(土御門東洞院面、號左衞門陣、)云云。文安は、後花園ノ天皇の御世なり。
新字:土御門ノ内裏は、土御門ノ南、烏丸ノ西と、拾芥抄に見えたり。或書に、光厳院より、後奈良院まで、此内裏にましませりと云へり。明応凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車路次、正親町西行、室町南行、近衛東行云云と見え、又二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如くなり。然ればそのころは、北へ広かりて、一条の南づらまでも、内裏なりしにや。さる故にその西表の御門、正親町に有て、それより出給ひしなるべし。又同シ帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有しよしなり。されば御所は時時にすこしづつ地かはりて、ここかしこに有しかども、皆同じ廓の内にてぞ有りつらん。さて今の内裏は、正親町院の御世、信長公秀吉公などの時に、造営せられし地なるべし。これも土御門ノ内裏の外廓の、やうやうに東へ北へ広くなりて、今ノ世の外廓とはなれりとおぼしければ、猶同じ廓の内なり。さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御諡にもつけ奉られたるにやと、これも或人云へり。中原ノ康富ノ記に、文安元年九月廿八日云云、去年九月廿三日炎上内裏之御門四足、(土御門東洞院面、号左衛門陣、)云云。文安は、後花園ノ天皇の御世なり。
書き下し
土御門の内裏は、土御門の南、烏丸の西と、拾芥抄に見えたり。ある書に、光厳院より、後奈良院まで、この内裏にましませりと云えり。明応凶事記に、後土御門院の御葬を記せるに、御車の路次、正親町を西に行き、室町を南に行き、近衛を東に行く云々と見え、また二水記に、後柏原院の御葬の路次を記されたるも、右の如くなり。然ればそのころは、北へ広かりて、一条の南づらまでも、内裏なりしにや。さる故にその西表の御門、正親町に有りて、それより出で給いしなるべし。また同じ帝の御所を、東洞院殿と申して、土御門東洞院に有りしよしなり。されば御所は時々にすこしずつ地かわりて、ここかしこに有りしかども、皆同じ廓の内にてぞ有りつらん。さて今の内裏は、正親町院の御世、信長公・秀吉公などの時に、造営せられし地なるべし。これも土御門の内裏の外廓の、ようように東へ北へ広くなりて、今の世の外廓とはなれりとおぼしければ、なお同じ廓の内なり。さて今の内裏は、正親町にあたる故に、後の御証にもつけ奉られたるにやと、これも或る人云えり。中原の康富の記に、文安元年九月二十八日云々、去年九月二十三日炎上せし内裏の御門四足、(土御門東洞院の面、左衛門陣と号す、)云々。文安は、後花園の天皇の御世なり。
現代語訳
土御門内裏は、土御門大路の南、烏丸小路の西にあると、拾芥抄に見える。ある書に、光厳院から後奈良院まで、この内裏にお住まいになったと言っている。明応凶事記に後土御門院の御葬送を記したところに、「御車の道筋は、正親町を西へ行き、室町を南へ行き、近衛を東へ行く」云々と見え、また二水記に後柏原院の御葬送の道筋を記されたのも、右のとおりである。そうであれば、その頃は北へ広がっていて、一条大路の南側までも内裏であったのだろうか。そのためその西側の御門が正親町にあって、そこからお出になったのであろう。また同じ天皇の御所を東洞院殿と申して、土御門東洞院にあったということである。だから御所は時々に少しずつ場所が変わって、あちこちにあったけれども、みな同じ囲いの内であったのだろう。さて今の内裏は、正親町院の御代、信長公・秀吉公などの時に造営された地であろう。これも土御門内裏の外囲いが次第に東へ北へ広くなって、今の世の外囲いとなったと思われるので、やはり同じ囲いの内である。さて今の内裏は正親町に当たるので、後の御諡号にも(正親町と)お付け申し上げたのであろうかと、これもある人が言った。中原康富の記に、「文安元年九月二十八日云々、去年九月二十三日に炎上した内裏の四足の御門(土御門東洞院の側、左衛門陣と号する)」云々とある。文安は後花園天皇の御代である。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
-
『玉勝間』四の巻 門院と申す御号の事同じ書に、上東門院の建てさせ給える、東北院の事を云える所に云わく、この堂土御門の末にあたりて、上東門院と申すなり。この後代々の女院の院号、かどの名聞こえ侍るめり。陽明門も、近衛に当たりたれば、この例によりてつかせ給えり。郁芳門・待賢門などは、大炊の御門・中の御門に御所おわしまさねど、なそらえてつかせ給えりとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なそらえてつかせ給うならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけ奉りけるにか、など聞こえければ、あきかたの中納言と云いし人の、この御料にのこして置かれけるにこそ侍るめれ、と申されけるとかや、さてぞつかせ給いにけるとなむ。みかどの御前などにては、つちみかど、このえなどは申さで、上東門のおおじよりはいづかた、陽明門の大路よりはそなた、などぞ奏すなる。されば一条二条など申すにも、同じこころなるべしと有り。栄花物語くれまつ星の巻に、陽明門院を、ようめいもんの院とあり。そのかみはいづれも、かく某門の院と、のを入れて申しけるにこそ。さも有るべき事なり。
-
『玉勝間』十四の巻 南殿続紀に、天平八年春正月丁酉、天皇群臣を南殿に宴す。また同じく二十年春正月戊寅、天皇南殿に御して、五位以上を宴すとある、この南殿は、後のごとく紫宸殿の別名か。はたもとの名は南殿なりしを、後に紫宸殿とは名づけられたるか。大かた殿門の名、大極殿朱雀門をおきては、漢ようの名は、奈良の宮までは見えたる事無し。ただ大安殿・小安殿・内安殿・外安殿など云う名のみ、多く見えたれば、もろもろの殿門の、漢ようの名は、今の京になりて、始めてつけられたりしにや。
-
『玉勝間』四の巻 持明院持明院は、上立売の北、新町の西に有り。もと持明院の家の先祖、中納言基家卿の家なり。然るに後高倉院の妃北白川の院、この基家卿の御女なりしによりて、後高倉院この持明院にましまし、その後後堀川のみかど、御位おりさせ給いて、この院にましましけるより、あいつぎて代々、おりいのみかどの御所となれりと、或る人の説なり。
-
『玉勝間』十三の巻 後陽成天皇の御院号の事後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬礼の事、日をえらびて、九月廿日と定めらる。そのほどは、もとの御所におわしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華経を読誦す。朝には御手洗まいり、御膳つねの如く奉る。御院号の事、諸家へ仰せ出ださるるその中に、殿下より勘進せらるるを定められて、後陽成院と号し奉る。さて廿日御葬礼、泉涌寺にて御火葬なり。御悩の程よりこれまでの御事、西洞院の時慶の卿のしるされたる、昇遐の記に見えたり。
-
『玉勝間』三の巻 天徳四年内裡焼亡事同記に云う、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥の三剋、内裏焼亡す、火は宣陽門内の方北腋の陣より出づ、中隔の外に出でず、天皇先ず中院に御し、次に朝所に御し、頃くして職の曹司に御す、定めて行う寮警固使、累代の珍宝、多く以て焼失す云云、丑の剋火止む、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並びに大刀契、取り出すこと能わず、今日勅に依りて捜し求めしむ、余燼の上、已に其の実を得たり、但し調度焼損す、其の真は猶存す、形質変わらず、甚だ神異たり、即ち大蔵省の韓櫃に之を納め奉らしむ、十月三日、縫殿大允藤文紀参りて申す、去月廿四日、宣旨に依りて内裏の賢所に御坐す三所を、縫殿寮に遷し奉るの間、内記威所三所を納め奉る、一所の鏡、件の鏡は猛火の上に在りと雖も涌損せず、即ち伊勢御神と云う、二所は真形破損无し、長さ六寸許り、一所の鏡は已に涌乱破損す、紀伊国御神と云う云云、大刀卌八柄の中、四柄は、清涼殿より之を求め出し、卌四柄は、温明殿より之を求め出す、其の中に節刀ハ契七十四枚有り、皆魚形なり、背中より両に別る、各銘有り、併せて全く損せず、長さ各二寸余許り、八枚は金、十四枚は銀、五十枚は銀塗物、又金銀の涌乱一斗余許り有るなり、左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官等同じく以て祗候す云云、云云、十一月四日、天皇職の曹司より、冷泉院に遷御す。応和元年十一月廿日、天皇冷泉院より、新造内裏に遷御す、云云。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る