玉勝間 / 六の巻 東京西京
平安城は、東西の京を置かれしかども、はじめより今の如く、東ノ京のみ榮えて、西ノ京は榮えざりしにや、慶保胤の池亭記に、予二十年以來、歷見東西二京、西京人家漸稀、殆幾幽墟矣、人者有去無來、屋者有壞無造と有り。
新字:平安城は、東西の京を置かれしかども、はじめより今の如く、東ノ京のみ栄えて、西ノ京は栄えざりしにや、慶保胤の池亭記に、予二十年以来、歴見東西二京、西京人家漸稀、殆幾幽墟矣、人者有去無来、屋者有壊無造と有り。
書き下し
平安城は、東西の京を置かれしかども、はじめより今のごとく、東の京のみ栄えて、西の京は栄えざりしにや、慶保胤の池亭記に、予二十年以来、東西の二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に幾し。人は去る有りて来る無く、屋は壊るる有りて造る無し、と有り。
現代語訳
平安京は東西の京を置かれたけれども、初めから今のように東の京だけが栄えて、西の京は栄えなかったのだろうか。慶保胤(慶滋保胤)の池亭記に「私は二十年来、東西の二京を見てきたが、西の京は人家がしだいにまばらになり、ほとんど廃墟に近い。人は去る者があっても来る者はなく、家は壊れるものがあっても建てるものはない」とある。
解説
平安京の西半分、右京が早くから衰えていたことを、慶滋保胤の池亭記で示した一段である。平安京は朱雀大路を境に東の左京と西の右京に分けられたが、右京は低湿地が多く、早くから人が住まなくなった。天元五年(982)の池亭記は、西京は人家が稀で廃墟に近く、人は去っても来ず、家は壊れても建たない、と描く。宣長の時代の京都も東側が中心で、西の京はさびれていた。今の姿が遷都以来のものかどうかを、同時代の記録で確かめようとしたのである。都市は計画どおりに育つとは限らず、地形や暮らしやすさによって人の流れが決まる。千年前の記録が、そのことを具体的に伝えている。
関連する章句
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