玉勝間 / 六の巻 大和大路
同記、仁治三年の所に、大和大路と見えたり。明月記にも見ゆ。すなはち今の、川東なる大和大路なるべし。
書き下し
同じ記、仁治三年の所に、大和大路と見えたり。明月記にも見ゆ。すなわち今の、川東なる大和大路なるべし。
現代語訳
同じ平戸記の仁治三年のところに「大和大路」と見えている。明月記にも見える。すなわち今の鴨川の東にある大和大路であろう。
解説
京都の大和大路という道の名が、鎌倉時代の日記にすでに見えることを記した短い一段である。平戸記の仁治三年(1242)の条と、藤原定家の日記明月記とに大和大路の名があり、宣長はこれを今の鴨川の東を南北に走る大和大路だろうと推す。大和大路は京から南へ、大和に向かう道で、その名は行き先を示している。道の名は、そこを人が何のために通ったかを伝える記憶の器である。宣長は若いころ京都で医学を学んだ時期があり、京の地理には親しかった。今歩いている通りの名が七百年以上前の記録にも見えると知ることは、町に積み重なった時間の厚みを感じさせる。
関連する章句
-
『玉勝間』七の巻 祇園の西門の前の大路の在家百練抄に、寛元元年正月四日辛巳、去る夜祇園の西大門の前の大路の在家、南北両面、地を払いて焼亡す、西は橋爪に及び、東は今大路に至り、南は綾小路の末を限る、百数家に及ぶ、と見えたり。今の祇園町のところなり、その頃より、はやく家居多かりしと見ゆ。後嵯峨の天皇の御世なり。
-
『玉勝間』六の巻 大名白川顕広の王の記の、安元三年四月のところに、諸国の大名、国役に応ぜずと有り。大名と云う名、その頃も有りけん。
-
『玉勝間』五の巻 かんでの小路勘解由の小路を、大鏡に、かんでのこうじと有り。
-
『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
-
『玉勝間』六の巻 百度参平戸記、延応二年二月十一日のところに、夜景に臨みて密々に祇園に参る、恒例の勤めに依りて、人数を率いて百度詣の事有り云云。
-
『玉勝間』七の巻 天竜川遠江の国なる天竜川を、古は、天の中川と云いけるよし、同じさらしなの日記には、てんりゅうと云う川のつらに云々と有り。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る