玉勝間 / 十三の巻 平城ノ天皇の御名
平城天皇の御諱、はじめには小殿と申せしを、安殿と改め給へり。そのかみすべて皇子たち諸王などの御名、いづれも御乳母の姓をとれる例にて、此小殿と申せしも、續紀卅九の卷に、御乳母安倍小殿ノ朝臣堺と云ふが見えたる、此姓なり。安殿も、此安ノ字と殿ノ字をとり給へるなり。さてこは阿傳と字音に讀、奉るなり。紀の國の在田ノ郡は、もと安諦ノ郡にて、書紀續紀に、阿提郡とも書れたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田ノ郡とは改められき。
新字:平城天皇の御諱、はじめには小殿と申せしを、安殿と改め給へり。そのかみすべて皇子たち諸王などの御名、いづれも御乳母の姓をとれる例にて、此小殿と申せしも、続紀卅九の巻に、御乳母安倍小殿ノ朝臣堺と云ふが見えたる、此姓なり。安殿も、此安ノ字と殿ノ字をとり給へるなり。さてこは阿伝と字音に読、奉るなり。紀の国の在田ノ郡は、もと安諦ノ郡にて、書紀続紀に、阿提郡とも書れたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田ノ郡とは改められき。
書き下し
平城天皇の御諱、はじめには小殿と申せしを、安殿と改め給えり。そのかみすべて皇子たち諸王などの御名、いずれも御乳母の姓をとれる例にて、この小殿と申せしも、続紀卅九の巻に、御乳母安倍小殿の朝臣堺と云うが見えたる、この姓なり。安殿も、この安の字と殿の字をとり給えるなり。さてこは阿伝と字音に読み奉るなり。紀の国の在田の郡は、もと安諦の郡にて、書紀続紀に、阿提郡とも書かれたるを、この天皇の御名に渉るをもて、大同元年に、在田の郡とは改められき。
現代語訳
平城天皇の御名(諱)は、はじめは小殿と申し上げたのを、安殿と改められた。当時、皇子たちや諸王などの御名は、いずれも御乳母の姓を取るのが例で、この小殿と申し上げたのも、『続日本紀』巻三十九に、御乳母の安倍小殿朝臣堺という人が見えている、その姓である。安殿も、この「安」の字と「殿」の字をお取りになったのである。さて、これは「あて」と字音でお読み申し上げるのである。紀伊の国の在田郡は、もとは安諦郡で、『日本書紀』『続日本紀』に「阿提郡」とも書かれていたのを、この天皇の御名に触れるので、大同元年に在田郡と改められた。
解説
関連する章句
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