玉勝間 / 十三の巻 神鏡焼損の事
百練鈔に、寛弘二年十一月十五日、內裏燒亡云云。神鏡在灰燼中、同十七日、神鏡燒損事、令諸卿定申之。或記云、十二月九日、奉移神鏡於東三條、關舊櫃特、奉納新韓橫之間、忽然有日光照曜、內侍女官等恐驚之、同三年七月三日、諸卿於御前定申、諸道勘申、神鏡可鑄改哉否事、定間、三尺餘蛇、自御在所庇落庭中、登自南殿北階、赴西不見、可謂神受兆。また長久元年九月九日、皇居上東門院燒亡云云。內侍所神鏡、在灰燼中燒損。遺藏人頭左中將資房、左少將經季等、令求之、僅奉准得御體、(燒殘五六寸許)卽奉畏入折橫、又得一切、(二三寸許)其體燒損、不分明云云。次次。得二三寸許各各段段也。又如金玉之物、數粒得之、隨又奉加入彼橫之。十日、內侍所女官二人夢想之、一人夢云、彼本所方小蛇、頗有惱氣之、一人夢云、彼本所有人云、吾相離、獨身在此所云云。仍女官等向彼所、奉鑿求之處、如金玉求得二粒、卽奉入畢。有靈驗、可感歎云云。已上見資房卿記、同十二日、定申神鏡燒損事、任寛弘二年例、可被行之由定申了。
新字:百練鈔に、寛弘二年十一月十五日、内裏焼亡云云。神鏡在灰燼中、同十七日、神鏡焼損事、令諸卿定申之。或記云、十二月九日、奉移神鏡於東三条、関旧櫃特、奉納新韓横之間、忽然有日光照曜、内侍女官等恐驚之、同三年七月三日、諸卿於御前定申、諸道勘申、神鏡可鋳改哉否事、定間、三尺余蛇、自御在所庇落庭中、登自南殿北階、赴西不見、可謂神受兆。また長久元年九月九日、皇居上東門院焼亡云云。内侍所神鏡、在灰燼中焼損。遺蔵人頭左中将資房、左少将経季等、令求之、僅奉准得御体、(焼残五六寸許)即奉畏入折横、又得一切、(二三寸許)其体焼損、不分明云云。次次。得二三寸許各各段段也。又如金玉之物、数粒得之、随又奉加入彼横之。十日、内侍所女官二人夢想之、一人夢云、彼本所方小蛇、頗有悩気之、一人夢云、彼本所有人云、吾相離、独身在此所云云。仍女官等向彼所、奉鑿求之処、如金玉求得二粒、即奉入畢。有霊験、可感嘆云云。已上見資房卿記、同十二日、定申神鏡焼損事、任寛弘二年例、可被行之由定申了。
書き下し
百練抄に、寛弘二年十一月十五日、内裏焼亡云云。神鏡灰燼の中に在り、同十七日、神鏡焼損の事、諸卿をしてこれを定め申さしむ。或る記に云う、十二月九日、神鏡を東三条に移し奉る、旧櫃を開く特、新韓櫃に納め奉るの間、忽然として日光の照曜する有り、内侍女官等これを恐れ驚く、同三年七月三日、諸卿御前に於て定め申す、諸道勘申す、神鏡鋳改むべきや否やの事、定むる間、三尺余の蛇、御在所の庇より庭中に落ち、南殿の北階より登り、西に赴きて見えず、神受の兆と謂うべし。また長久元年九月九日、皇居上東門院焼亡云云。内侍所の神鏡、灰燼の中に在りて焼損す。蔵人頭左中将資房、左少将経季等を遣わし、これを求めしむ、僅かに御体を准得し奉る、(焼け残り五六寸許)即ち畏みて折櫃に入れ奉る、又一切を得、(二三寸許)その体焼損し、分明ならずと云云。次次。二三寸許を得、各各段段なり。又金玉の如き物、数粒これを得、随いて又これを彼の櫃に加え入れ奉る。十日、内侍所の女官二人これを夢想す、一人の夢に云う、彼の本所の方に小蛇あり、頗る悩む気有り、一人の夢に云う、彼の本所に人有りて云う、吾相離れ、独身此の所に在りと云云。仍りて女官等彼の所に向かい、鑿ちてこれを求め奉るの処、金玉の如きもの二粒を求め得、即ち入れ奉り畢んぬ。霊験有り、感歎すべしと云云。已上資房卿の記に見ゆ、同十二日、神鏡焼損の事を定め申す、寛弘二年の例に任せて、これを行わるべきの由定め申し了んぬ。
現代語訳
『百練抄』に、「寛弘二年十一月十五日、内裏が焼亡した云々。神鏡は灰燼の中にあった。同十七日、神鏡が焼損したことについて諸卿に評定させた。ある記録に言う、十二月九日、神鏡を東三条殿に移し申し上げた。古い櫃を開いた時、新しい唐櫃にお納めする間に、突然日の光が照り輝くことがあり、内侍や女官たちは恐れ驚いた。同三年七月三日、諸卿が御前で評定し、諸道の博士が勘申して、神鏡を鋳直すべきかどうかを定めている間に、三尺余りの蛇が御座所の庇から庭に落ち、紫宸殿の北の階段から登り、西へ向かって見えなくなった。神が承諾を示さないしるしと言うべきである」。また「長久元年九月九日、皇居の上東門院が焼亡した云々。内侍所の神鏡は灰燼の中にあって焼損した。蔵人頭左中将資房・左少将経季らを遣わしてこれを探させたところ、わずかに御神体を探し当て申し上げ(焼け残りは五、六寸ほど)、すぐに畏んで折櫃にお入れした。また一片を得た(二、三寸ほど)が、その形は焼け損じて、はっきりしないという云々。次々に二、三寸ほどのものを得たが、それぞればらばらの断片であった。また金や玉のようなものを数粒得たので、それもまたその櫃に加え入れ申し上げた。十日、内侍所の女官二人が夢を見た。一人の夢では、もとの場所のあたりに小さな蛇がいて、ひどく苦しんでいる様子であった。もう一人の夢では、もとの場所に人がいて、『私は離ればなれになって、一人でここにいる』と言ったという云々。そこで女官たちがその場所に行き、掘って探したところ、金や玉のようなものを二粒見つけ、すぐにお入れし終えた。霊験があり、感嘆すべきことであるという云々。以上は資房卿の日記に見える。同十二日、神鏡の焼損のことを評定し、寛弘二年の例にならって行うべきであると定め申し上げた」とある。
解説
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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