玉勝間 / 十一の巻 神祇官に坐ス八柱ノ神の御霊実の焼亡坐し事
安元三年四月廿八日の火災に、神祇官ノ八神の御正體燒亡のよし、其ころの記錄どもに見えたり。此ノ火は樋口富ノ小路より出たるよしなり。さて神祇官は、大炊、御門の南、大宮の西にて、大炊ノ御門は、今竹屋町と云ふすぢなれば、失火の所よりは、遙かにさかれれば、御正躰は、いかにも易く取出奉るべきわざなるに燒亡給ひぬるは、いかなる事にか。いともいともあさましく、かしこし。されど斯かるまが事も、みな神の御心にては有なり。その程より、つぎつぎの世の有さまをもて思ふに、天皇のやむことなき御守神たちの御靈實の、斯くなくなり給へるは、由ある事なりけむかし。
新字:安元三年四月廿八日の火災に、神祇官ノ八神の御正体焼亡のよし、其ころの記録どもに見えたり。此ノ火は樋口富ノ小路より出たるよしなり。さて神祇官は、大炊、御門の南、大宮の西にて、大炊ノ御門は、今竹屋町と云ふすぢなれば、失火の所よりは、遥かにさかれれば、御正体は、いかにも易く取出奉るべきわざなるに焼亡給ひぬるは、いかなる事にか。いともいともあさましく、かしこし。されど斯かるまが事も、みな神の御心にては有なり。その程より、つぎつぎの世の有さまをもて思ふに、天皇のやむことなき御守神たちの御霊実の、斯くなくなり給へるは、由ある事なりけむかし。
書き下し
安元三年四月廿八日の火災に、神祇官の八神の御正体焼亡のよし、そのころの記録どもに見えたり。この火は樋口富の小路より出でたるよしなり。さて神祇官は、大炊御門の南、大宮の西にて、大炊の御門は、今竹屋町と云うすじなれば、失火の所よりは、遥かにさかれれば、御正体は、いかにも易く取り出だし奉るべきわざなるに焼亡し給いぬるは、いかなる事にか。いともいともあさましく、かしこし。されどかかるまが事も、みな神の御心にては有るなり。その程より、つぎつぎの世の有さまをもて思うに、天皇のやむごとなき御守り神たちの御霊実の、かくなくなり給えるは、由ある事なりけむかし。
現代語訳
安元三年(1177)四月二十八日の火災で、神祇官に祀る八神の御正体(御神体)が焼失したことが、その頃の記録類に見えている。この火は樋口富小路から出たということである。さて神祇官は大炊御門の南、大宮の西にあって、大炊御門は今の竹屋町という通りであるから、火元からは遥かに離れているので、御正体はどうにでもたやすく取り出してお移しできたはずなのに、焼けてしまわれたのはどうしたことか。まことに嘆かわしく、畏れ多いことである。しかしこのような禍事も、みな神の御心によるものなのである。その頃から後の、代々の世の有様によって考えると、天皇の尊い御守りの神々の御霊代が、このようになくなってしまわれたのは、理由のあることであったのだろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 内裏焼神鏡焼損事寛弘二年十一月十五日子の刻ばかり云云、内裏焼亡す云云、火は温明殿より起こる、神鏡(所謂恐所)大刀契、啓して取り出だすこと能わず云云、云云十七日云云、神鏡焼損の事を定め申す云云、神鏡・大刀并びに契書焼亡す、鏡は僅かに帯有りて、自余は焼損して円規無く、鏡の形を失う云云、村上御記に云う、天徳四年九月廿四日焼亡云云、廿四日重光朝臣申して云う、温明殿に罷り到りて求むる所、瓦の上に鏡一面在るを見る、(其の鏡径八寸、頭に一疵有りと雖も、専ら損無し)円規并びに帯等、甚だ以て分明なり、縁の破れ瓦の上に露出す、之を見る者驚き威ぜざるは無し云云、廿五日、〓遠・伊陟等合わせ申す、また焼けたる鏡一面を求め得たり云云、故殿の御日記に云う、恐所は火灰燼の中に在りと雖も曾て焼損せず云云、(鏡三面の中、伊勢大神、紀伊国日前国懸云云、件の説の如くんば三面云云、十二月九日、左頭中将来たりて立ちながら云う、今日酉の刻、神鏡太政官より東三条院に移し奉る、其の事に供奉すべし者(てえり)、云云、十日頭中将示し送りて云う、神鏡昨移し奉る、但し旧き御韓櫃を開きて持ち、新しき辛櫃に納め奉る間、忽然として日光の照耀するが如きこと有り、内侍女官等同じく見る、神験猶新たなり、最も是れ恐れ驚くに足る者(てえり)、と同記に見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 神鏡焼損の事百練抄に、寛弘二年十一月十五日、内裏焼亡云云。神鏡灰燼の中に在り、同十七日、神鏡焼損の事、諸卿をしてこれを定め申さしむ。或る記に云う、十二月九日、神鏡を東三条に移し奉る、旧櫃を開く特、新韓櫃に納め奉るの間、忽然として日光の照曜する有り、内侍女官等これを恐れ驚く、同三年七月三日、諸卿御前に於て定め申す、諸道勘申す、神鏡鋳改むべきや否やの事、定むる間、三尺余の蛇、御在所の庇より庭中に落ち、南殿の北階より登り、西に赴きて見えず、神受の兆と謂うべし。また長久元年九月九日、皇居上東門院焼亡云云。内侍所の神鏡、灰燼の中に在りて焼損す。蔵人頭左中将資房、左少将経季等を遣わし、これを求めしむ、僅かに御体を准得し奉る、(焼け残り五六寸許)即ち畏みて折櫃に入れ奉る、又一切を得、(二三寸許)その体焼損し、分明ならずと云云。次次。二三寸許を得、各各段段なり。又金玉の如き物、数粒これを得、随いて又これを彼の櫃に加え入れ奉る。十日、内侍所の女官二人これを夢想す、一人の夢に云う、彼の本所の方に小蛇あり、頗る悩む気有り、一人の夢に云う、彼の本所に人有りて云う、吾相離れ、独身此の所に在りと云云。仍りて女官等彼の所に向かい、鑿ちてこれを求め奉るの処、金玉の如きもの二粒を求め得、即ち入れ奉り畢んぬ。霊験有り、感歎すべしと云云。已上資房卿の記に見ゆ、同十二日、神鏡焼損の事を定め申す、寛弘二年の例に任せて、これを行わるべきの由定め申し了んぬ。
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『玉勝間』三の巻 天徳四年内裡焼亡事同記に云う、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥の三剋、内裏焼亡す、火は宣陽門内の方北腋の陣より出づ、中隔の外に出でず、天皇先ず中院に御し、次に朝所に御し、頃くして職の曹司に御す、定めて行う寮警固使、累代の珍宝、多く以て焼失す云云、丑の剋火止む、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並びに大刀契、取り出すこと能わず、今日勅に依りて捜し求めしむ、余燼の上、已に其の実を得たり、但し調度焼損す、其の真は猶存す、形質変わらず、甚だ神異たり、即ち大蔵省の韓櫃に之を納め奉らしむ、十月三日、縫殿大允藤文紀参りて申す、去月廿四日、宣旨に依りて内裏の賢所に御坐す三所を、縫殿寮に遷し奉るの間、内記威所三所を納め奉る、一所の鏡、件の鏡は猛火の上に在りと雖も涌損せず、即ち伊勢御神と云う、二所は真形破損无し、長さ六寸許り、一所の鏡は已に涌乱破損す、紀伊国御神と云う云云、大刀卌八柄の中、四柄は、清涼殿より之を求め出し、卌四柄は、温明殿より之を求め出す、其の中に節刀ハ契七十四枚有り、皆魚形なり、背中より両に別る、各銘有り、併せて全く損せず、長さ各二寸余許り、八枚は金、十四枚は銀、五十枚は銀塗物、又金銀の涌乱一斗余許り有るなり、左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官等同じく以て祗候す云云、云云、十一月四日、天皇職の曹司より、冷泉院に遷御す。応和元年十一月廿日、天皇冷泉院より、新造内裏に遷御す、云云。
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『玉勝間』八の巻 伊勢勅使のとも人の数同じ書に、仁安三年十二月二十一日、伊勢大神宮炎上によりて、同じ月勅使、左大弁雅頼卿発遣、その人数は、勅使大弁子息一人、従十一人、前駈六人(従各五人)、侍五人(従各十人)、雑色六人(従各二人)、舎人四人、人夫三十人、右大史三善章貞、従二十人、史生盛久、同兼康、従各二十人、馬各五疋、官掌頼兼(同前)、弁侍二人、従各五人、馬各二疋、使部十人、従各一人と見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽の勝光明院の宝物の事久安二年八月廿三日庚申、是の日、法皇鳥羽の勝光明院の宝蔵に納むる所の宝物を御覧じ、即ち目録を書かるる事有り、件の目録は、先年白川の御所炎上の時、焼失するなり。顕密の聖〓、古今の典籍、道具書法、弓剣管絃の類、皆是れ往代の重宝なり。と同じ書に見えたり。
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『玉勝間』十二の巻 神社修造の勅命同じ紀に、貞観六年六月廿七日辛亥、勅して曰く、去年七月廿五日、五畿并びに伊賀・伊勢・志摩・遠江・相模・上総等の国に頒ち下す、云う。国家を鎮護し、災害を消伏するは、尤もこれ神祇を敬い、祭礼を欽むの致す所なり。是を以て格制頻りに下し、警告慇懃なり。今諸国の牧宰、制旨を慎まず、専ら神主・禰宜・祝等に任せ、神社をして破損し、祭礼疎慢ならしむ、神明是に由りて祟りを発し、国家此を以て災いを招く。今神社をして一時に新たに華飾を加えしめんと欲するに、而るに月を経年を踰えて、未だ修造有らず、宜しく早く修飾を加え、重意を致すこと勿かるべし。
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