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玉勝間 / 十三の巻 宗祇法師の伝

宗祇法師、姓中臣氏飯尾、宗充之子也。其先世居紀州。母藤氏、憂無嗣、一百日祈玉津島神、滿期之夜、夢玉子入手口而姙。十三月而生祇、時應永廾八年也。祇自童卵、好和歌、就叔父宗砌學習、自稱種玉庵、因母呑玉孕之瑞也。上京師心敬、結草菴於岩倉之長谷。亦好老莊、自呼自然齋、文明三年、訪東常緣、親灸請益歌道。常緣傳歌道之祕事、無所遺、後祇謝返京。又肆詩參禪、後不定居處、爲浮萍客、遊諸國、受祇之傳者、肖栢素純宗長宗碩等也。文龜二年七月晦日、於相州湯本郵邸卒、八十二歳。葬于駿州桃園定輪寺、栽松于墓上と、ある物にのせたり。

新字:宗祇法師、姓中臣氏飯尾、宗充之子也。其先世居紀州。母藤氏、憂無嗣、一百日祈玉津島神、満期之夜、夢玉子入手口而姙。十三月而生祇、時応永廾八年也。祇自童卵、好和歌、就叔父宗砌学習、自称種玉庵、因母呑玉孕之瑞也。上京師心敬、結草菴於岩倉之長谷。亦好老荘、自呼自然斎、文明三年、訪東常縁、親灸請益歌道。常縁伝歌道之秘事、無所遺、後祇謝返京。又肆詩参禅、後不定居処、為浮萍客、遊諸国、受祇之伝者、肖栢素純宗長宗碩等也。文亀二年七月晦日、於相州湯本郵邸卒、八十二歳。葬于駿州桃園定輪寺、栽松于墓上と、ある物にのせたり。

書き下し

宗祇法師、姓は中臣氏飯尾、宗充の子なり。その先は世々紀州に居る。母は藤氏、嗣無きを憂え、一百日玉津島の神に祈る、満期の夜、玉子手に入り口にすると夢みて妊む。十三月にして祇を生む、時に応永廿八年なり。祇童卯より、和歌を好み、叔父宗砌に就きて学習す、自ら種玉庵と称す、母の玉を呑みて孕む瑞に因るなり。京師に上りて心敬にしたがい、草庵を岩倉の長谷に結ぶ。また老荘を好み、自ら自然斎と呼ぶ、文明三年、東常縁を訪い、親炙して歌道を請益す。常縁歌道の秘事を伝え、遺す所無し、後祇謝して京に返る。又詩を肆い禅に参じ、後居処を定めず、浮萍の客となり、諸国に遊ぶ、祇の伝を受くる者は、肖柏素純宗長宗碩等なり。文亀二年七月晦日、相州湯本の郵邸に卒す、八十二歳。駿州桃園定輪寺に葬り、松を墓上に栽うと、ある物にのせたり。

現代語訳

「宗祇法師は、姓は中臣氏の飯尾で、宗充の子である。その先祖は代々紀伊に住んでいた。母は藤原氏で、跡継ぎのないことを憂えて百日間玉津島の神に祈ったところ、満願の夜、玉が手に入り口に入る夢を見て身ごもった。十三か月で宗祇を生んだ。時に応永二十八年である。宗祇は幼いころから和歌を好み、叔父の宗砌について学んだ。自ら種玉庵と称したのは、母が玉を呑んで身ごもった瑞兆によるのである。京に上って心敬に従い、岩倉の長谷に草庵を結んだ。また老荘の学を好み、自ら自然斎と号した。文明三年、東常縁を訪ね、親しく教えを受けて歌道を学んだ。常縁は歌道の秘事を余すところなく伝え、その後宗祇は礼を述べて京に帰った。また詩を学び禅に参じ、後には住まいを定めず、浮草のような旅人となって諸国を巡った。宗祇の伝授を受けた者は、肖柏・素純・宗長・宗碩らである。文亀二年七月晦日、相模の湯本の宿で亡くなった。八十二歳。駿河の桃園の定輪寺に葬り、墓の上に松を植えた」と、ある書物に載せている。

解説

室町時代の連歌師宗祇の伝記を、ある書物からそのまま写した段である。母が玉を呑む夢を見て身ごもったという誕生の奇瑞、叔父宗砌や心敬に学んだこと、東常縁から古今伝授を受けたこと、晩年は旅に生き、箱根湯本で没したことが記されている。宗祇の姓や出自には異説が多く、ここに見える中臣氏飯尾とする記述も確かとはいえない。宣長は「ある物にのせたり」と出所をぼかしたまま写し、真偽の判断を加えていない。宣長は古今伝授のような秘伝による歌学を批判したが、中世の歌道を担った人物の経歴を記録として残す意義は認めていた。旅に生きて弟子を育てた宗祇の生涯は、芭蕉にも深い影響を与えたことで知られる。

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