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玉勝間 / 二の巻 おのれあがたゐの大人の〓〓を受けしやう

宣長、縣居ノ大人に逢ひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき。その後は唯だ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物は問ひあきらめたりける。そのたびたび給へりし御答へのふみども、いと多くつもりにたりしを、ひとつも散らさで、いつきもたりけるを、せちに人の乞ひもとむるままに、ひとつふたつと取らせけるほどに、今は殘りすくなくなん成りぬる。さて古事記の注釋を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ卷をば、考へ給へる古言をもて、假字がきにし給へるをも、貸し給ひ、又中ッ卷下ッ卷は、かたはらの訓を改め、所所書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき。古事記傳に、師の說とて引たるは、多く其本にある事どもなり。そもそも此大人、古學の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへる如く、世のかぎりもはら萬葉に力を盡されしほどに、古事記、書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもも多し。

新字:宣長、県居ノ大人に逢ひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき。その後は唯だ、しばしば書かよはしきこえてぞ、物は問ひあきらめたりける。そのたびたび給へりし御答へのふみども、いと多くつもりにたりしを、ひとつも散らさで、いつきもたりけるを、せちに人の乞ひもとむるままに、ひとつふたつと取らせけるほどに、今は残りすくなくなん成りぬる。さて古事記の注釈を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考へ給へる古言をもて、仮字がきにし給へるをも、貸し給ひ、又中ッ巻下ッ巻は、かたはらの訓を改め、所所書キ入レなどをも、てづからし給へる本をも、かし給へりき。古事記伝に、師の説とて引たるは、多く其本にある事どもなり。そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへる如く、世のかぎりもはら万葉に力を尽されしほどに、古事記、書紀にいたりては、そのかむかへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どもも多し。

書き下し

宣長、縣居の大人に逢い奉りしは、この里に一夜やどり給えりしおり、一度のみなりき。その後はただ、しばしば書かよわしきこえてぞ、物は問いあきらめたりける。そのたびたび給えりし御答えのふみども、いと多くつもりにたりしを、ひとつも散らさで、いつきもたりけるを、せちに人の乞いもとむるままに、ひとつふたつと取らせけるほどに、今は残りすくなくなん成りぬる。さて古事記の注釈を物せんの心ざし深き事を申せしによりて、その上つ巻をば、考え給える古言をもて、仮字がきにし給えるをも、貸し給い、また中つ巻下つ巻は、かたわらの訓を改め、所所書き入れなどをも、てずからし給える本をも、かし給えりき。古事記伝に、師の説とて引きたるは、多くその本にある事どもなり。そもそもこの大人、古学の道をひらき給える御いさおは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまえる如く、世のかぎりもはら万葉に力を尽くされしほどに、古事記、書紀にいたりては、そのかむかえ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くわしからぬ事どもも多し。

現代語訳

宣長が縣居の大人にお会いしたのは、この里に一夜お泊まりになった折の、ただ一度だけであった。その後はただ、たびたび書簡を通わせ申し上げて、物事を問い明らかにしたのである。そのたびごとにくださったお答えの手紙は、たいへん多く積もっていたのを、一つも散らさずに大切に持っていたが、しきりに人が乞い求めるので、一つ二つと与えているうちに、今は残り少なくなってしまった。さて古事記の注釈をしようという志が深いことを申し上げたので、その上巻を、お考えになった古語によって仮名書きにされたものもお貸しくださり、また中巻・下巻は、傍らの訓を改め、所々に書き入れなどもご自身でなさった本もお貸しくださった。『古事記伝』に師の説として引いたのは、多くその本にあることどもである。そもそもこの大人が古学の道を開かれたお手柄は言うまでもないが、あの諭しの言葉でおっしゃったように、生涯ひたすら万葉集に力を尽くされたので、古事記・日本書紀に至っては、その考えがまだ広く深くは行き渡らず、詳しくないことも多い。

解説

宣長と真淵の師弟関係の実際を語った段である。二人が会ったのは松坂の一夜のただ一度で、その後は手紙で問いを重ねた。いわゆる文通による指導で、真淵からの返書は大切に保管していたが、人に乞われて分け与えるうちに残り少なくなったという。真淵は古事記の上巻を古語で読み下した本や、中・下巻に訓を改め書き入れをした本を宣長に貸し、それが『古事記伝』の師説の出どころになった。そのうえで宣長は、師は万葉集に力を尽くしたために、古事記・書紀の研究はまだ行き届かず詳しくないところも多い、と率直に書く。恩を深く感じながら、師の限界も見据える。一度の対面と手紙だけで、これほど濃い師弟関係が結ばれたことは、学びの形を考えるうえで示唆に富む。

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