玉勝間 / 三の巻 肖栢みまかれる事
同記云、同年四月四日、夢菴(肖栢法師近年號牡丹花)死去云云。(八十有餘云云)。
新字:同記云、同年四月四日、夢菴(肖栢法師近年号牡丹花)死去云云。(八十有余云云)。
書き下し
同記に云う、同年四月四日、夢菴(肖柏法師、近年牡丹花と号す)死去云云。(八十有余云云)。
現代語訳
同じ『二水記』に「同年(大永七年)四月四日、夢菴(肖柏法師。近年は牡丹花と号していた)が死去した。云々。(八十余歳であった云々)」とある。
解説
連歌師の肖柏の死を伝える一行を、宣長はわざわざ一段として立てている。肖柏は宗祇に学んだ室町後期の連歌師・歌人で、宗祇・宗長とともに『水無瀬三吟百韻』を巻いたことで名高い。牡丹花・夢庵などと号し、古今伝授を受けて堺の町衆にも古典を講じた人物である。宣長は歌学と古今集の研究に深く関わっていたから、その伝承の系譜に連なる肖柏の没年と年齢が同時代の日記にはっきり出ていることは、見逃せない資料であった。人物の生没を伝記や後世の書ではなく当時の記録で押さえる、という手堅さがここにある。短い抜き書きだが、確かな一点を残しておくことが後の研究の土台になる、という宣長の考えを示している。
関連する章句
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