玉勝間 / 十の巻 玄旨法印の忌日
同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいはく。五條のまうちぎみより、京極ノ黄門の一ながれ、その末絕えずして、此法印まで、正しきすぢを傳へ來り給へりとぞ。まことに仰ぐべく、たふとまざらむやは。過にし八月廿日に、かくれ給ひぬれば、定家卿の正忌にさへあたりにけり。さるべき契や有けむ云云。「かはらずよ高きその名もをぐら山秋の廿日にきえし月影。
新字:同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいはく。五条のまうちぎみより、京極ノ黄門の一ながれ、その末絶えずして、此法印まで、正しきすぢを伝へ来り給へりとぞ。まことに仰ぐべく、たふとまざらむやは。過にし八月廿日に、かくれ給ひぬれば、定家卿の正忌にさへあたりにけり。さるべき契や有けむ云云。「かはらずよ高きその名もをぐら山秋の廿日にきえし月影。
書き下し
同じ集、玄旨法印をかなしめる詞にいわく。五条のもうちぎみより、京極の黄門の一ながれ、その末絶えずして、この法印まで、正しきすじを伝え来たり給えりとぞ。まことに仰ぐべく、とうとまざらむやは。過ぎにし八月廿日に、かくれ給いぬれば、定家卿の正忌にさえあたりにけり。さるべき契や有りけむ云々。「かわらずよ高きその名もおぐら山秋の廿日にきえし月影。
現代語訳
同じ集で、玄旨法印(細川幽斎)の死を悲しんだ文にいう。「五条の大臣(藤原俊成)から京極の黄門(藤原定家)へと続く一流れが、その末の絶えることなく、この法印まで正しい筋を伝えてこられたという。まことに仰ぐべき方で、尊ばずにいられようか。去る八月二十日にお亡くなりになったので、定家卿の正忌日にまで当たったのである。そうなるべき因縁があったのだろうか」云々。(歌)「変わることはないのだなあ。定家ゆかりの小倉山と同じく、その高い名も。秋の二十日に消えていった月の光のようなあなたは」。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 京極ノ中納言の墓又時雨の亭の事同じ人の、ひえの山にもうでたる詞にいわく。貫之のぬしの塚は、かしこのしかしか聞ゆる所に有りと云いたるを、定かに知れるも無くて、見ずなりにけるぞ、いといと名残りがちに、ほい無くなん。定家卿のも有りと云えれど、それはひがことにて、まことは九重のかたわら、柳原のほとり、今の相国寺のうちに、時雨の亭も有りしとぞ。長禄の頃おい、年毎の八月廿日には、すいたる人々、秋のなかばも過ぎぬべしと云う句を、一もじずつ初めに置きて、歌よみとぶらいしも、この所なるべし。
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『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事園大暦に云う、貞和三年九月廿五日、今日は竹林院入道左大臣の卅三回の忌辰なり、茲に因りて広義門院、西園寺無量光院の壇場に就きて、御仏事を修せらる、件の朞月の仏事、先規未だ詳らかならず云云、手〓〓を取るに、更に所見無し云云、然れども或いはまた此の事を営む人有るか、予が先妣の此の忌辰、相営む事有り、所詮幽霊の追福、遠近懇志を尽くすの条、孝子の道に叶うべきか、とあり、この論おだやかなり。
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