玉勝間 / 十三の巻 後陽成天皇の御院号の事
後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬禮の事、日をえらびて、九月廿日と定めらる。そのほどは、もとの御所におはしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華經を讀誦す。朝には御手洗まゐり、御膳つねの如く奉る。御院号の事、諸家へ仰せ出さるる其中に、殿下より勘進せらるるを定められて、後陽成院と号し奉る。さて卄日御葬禮、泉涌寺にて御火葬なり。御惱の程よりこれまでの御事、西洞院ノ時慶ノ卿のしるされたる、昇遐ノ記に見えたり。
新字:後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬礼の事、日をえらびて、九月廿日と定めらる。そのほどは、もとの御所におはしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華経を読誦す。朝には御手洗まゐり、御膳つねの如く奉る。御院号の事、諸家へ仰せ出さるる其中に、殿下より勘進せらるるを定められて、後陽成院と号し奉る。さて卄日御葬礼、泉涌寺にて御火葬なり。御悩の程よりこれまでの御事、西洞院ノ時慶ノ卿のしるされたる、昇遐ノ記に見えたり。
書き下し
後陽成天皇、元和三年八月廿六日に崩御、御葬礼の事、日をえらびて、九月廿日と定めらる。そのほどは、もとの御所におわしまし、御前僧夜もすがらひそかに法華経を読誦す。朝には御手洗まいり、御膳つねの如く奉る。御院号の事、諸家へ仰せ出ださるるその中に、殿下より勘進せらるるを定められて、後陽成院と号し奉る。さて廿日御葬礼、泉涌寺にて御火葬なり。御悩の程よりこれまでの御事、西洞院の時慶の卿のしるされたる、昇遐の記に見えたり。
現代語訳
後陽成天皇(上皇)は元和三年八月二十六日に崩御され、御葬礼のことは日を選んで九月二十日と定められた。その間はもとの御所にいらっしゃり、御前の僧が夜通しひそかに法華経を読誦した。朝には御手水を差し上げ、御膳もふだんのとおりお供えした。御院号のことは諸家に仰せ出されて案を求めたその中で、関白殿下から勘申されたものに決められて、後陽成院とお名づけ申し上げた。そして二十日に御葬礼があり、泉涌寺で御火葬となった。御病気のころからここまでの御事は、西洞院時慶卿が記された『昇遐記』に見えている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
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『玉勝間』三の巻 後柏原天皇崩御御入棺の儀同記に云う、大永六年四月十一日、天晴る、戌の刻御入棺の事有り、(御棺は雲龍院より沙汰するなり。)是より先に御沐浴の儀有り云云(僧衆の沙汰たるの間、見奉らず。)範久朝臣御服を取り(御直衣・御袴・御袷・御念珠・御血脉等、各御菌に居う、)一一之を授く、(御冠・御枕は、本より玉体に副う。)等長老に授く、(泉涌寺)長老取りて御棺に入れ奉る与。此の如き儀、一円に僧衆の行事たるの間、之を見ず、頃くして事調うるの由之を示す、仍て御膳の事を催す。頭弁資定朝臣参進し、御膳を供す。(是より先に橋以て案二脚を御前に結い置き、御膳の料に備うるなり。)菅少納言長淳(衣冠)役送す、五前次第、(第一第二御飯、第三、第四、第五菓子、)供し了りて即ち之を撤す、此の後御手水を供す。(根手洗・御手揮等、緒を以て持参す、)長淳に授く、資定朝臣先ず御手洗を取り、御前に置く、(北面なり、先例は西南を以て御前と為すか、然れども此の記録所、御座分只一間なり、狭少たるの間、北面と為す、)御屏風を立つ、次に橡を取り(兼ねて蓋を撤す、)水を入る、(二三度、其の由ばかりなり、)次に御手拭を取り、御手洗の端に懸け、則ち之を撒す、長淳之を取り、授くるに〓を以てす云云。
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『玉勝間』一の巻 四条天皇御諡のさだ同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
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『玉勝間』一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
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『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ人の死にたる後のわざ、上つ代にはいかに有りけむ。神代に天若日子の身うせにし時、八日八夜遊ぶと有りて、楽して遊びし事などの、わづかに見えたるのみにして、こまかなる事は、すべて知りがたし。ただし音楽して遊びし事は、なべての定まりなり。そのよしは古事記伝に云えるが如し。さて死を穢とする事は、神代より然り。されどそれも、日数のかぎりの定まりしは、後なるべし。また忌服は、から国をまねびたる、後の事なり。書紀の仁徳天皇の御巻に、素服と云う字など見えたれど、例の漢文のかざりにこそ有れ、そのかみさる事有りしにあらず。仲哀天皇崩りましまして、いく程も無く、神功皇后の、重き御神わざの有りしにても、服無かりけむ事知られたり。そもそも漢国に、喪服と云う事のかぎりを、こまやかに定めたるは、ねもころなるに似たれども、なかなかに心ざし浅き、うわべの事なり。親などにおくれたらん悲しさは、その月のその頃までと、きわやかにかぎりの有るべきわざには有らざるに、しいてかぎりをたてて、きわやかに定めたるは、かの国のなべてのくせにて、云いもてゆけば、人にいつわりを教うるわざなり。
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『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
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