玉勝間 / 一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ
同記云、同年六月廿六日云云、今日殿下御物語云、顯德院諡號、可被改、可奉號後鳥羽云、此事、前內府申行歟、案此事、我朝無例歟、漢朝者一兩度相存之由、大府卿申之、又御改名之儀、太不得其心、何故云、不叶冥慮者、又如何。
新字:同記云、同年六月廿六日云云、今日殿下御物語云、顕徳院諡号、可被改、可奉号後鳥羽云、此事、前内府申行歟、案此事、我朝無例歟、漢朝者一両度相存之由、大府卿申之、又御改名之儀、太不得其心、何故云、不叶冥慮者、又如何。
書き下し
同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
現代語訳
同じ日記にこうある。「同年六月二十六日。今日、殿下(摂関)のお話では、顕徳院の諡号を改められることになり、後鳥羽とお呼び申し上げることになったという。このことは前内大臣(土御門定通)が申し行ったのであろうか。このことを考えるに、わが国には例がないのではないか。中国には一、二度あると大府卿が申した。また御改名のことは、まったく納得がいかない。なぜかと言えば、(諡号が)神仏のお心にかなわないというのなら、それもまたどうであろうか。」
解説
後鳥羽院の諡号が改められたときの記事を、平戸記から引いた段である。承久の乱に敗れて隠岐に流され、延応元年にその地で崩じた後鳥羽院には、はじめ「顕徳院」という諡号が贈られた。ところがこの年、それを「後鳥羽院」に改めることになった。記主の平経高は、一度贈った諡号を改めるなどわが国に例がない、中国にも一、二度あるだけだ、と首をかしげ、その理由にも納得していない。院の怨霊を恐れる空気があったことは、当時の記録からもうかがえる。宣長はこうした記事を淡々と抜き出すが、配所で崩じた院の扱いに揺れる朝廷の姿がそこに映っている。名を改めることが、死者への畏れや政治の思惑と結びついていたのである。
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