玉勝間 / 十三の巻 肖栢を牡丹花と号する事
肖栢を牡丹花と云ふことは、牡丹の句によりて、世の人の云ひならはしたるなりと云ふめれど、三愛ノ記と云ふに、近きころほひ、津ノ國ゐな野のわたりに、庵を結びて、夢と号し、みづから牡丹花を名とせり、身におはぬやうに聞え侍れど、萬物一躰のことわりを思ふにやと、みづからしるせり。
新字:肖栢を牡丹花と云ふことは、牡丹の句によりて、世の人の云ひならはしたるなりと云ふめれど、三愛ノ記と云ふに、近きころほひ、津ノ国ゐな野のわたりに、庵を結びて、夢と号し、みづから牡丹花を名とせり、身におはぬやうに聞え侍れど、万物一体のことわりを思ふにやと、みづからしるせり。
書き下し
肖柏を牡丹花と云うことは、牡丹の句によりて、世の人の云いならわしたるなりと云うめれど、三愛の記と云うに、近きころおい、津の国いな野のわたりに、庵を結びて、夢と号し、みずから牡丹花を名とせり、身におわぬように聞こえ侍れど、万物一体のことわりを思うにやと、みずからしるせり。
現代語訳
連歌師の肖柏を「牡丹花」と呼ぶことは、牡丹を詠んだ句によって世の人が言い慣わしたのだと言うようだが、『三愛記』という書に、「近ごろ、摂津の国の猪名野のあたりに庵を結んで『夢』と号し、自分で牡丹花を名とした。身に似合わないように聞こえるが、万物一体の道理を思ってのことであろうか」と、自分で記している。
解説
室町時代の連歌師肖柏が「牡丹花」と号したいわれについて、世間の俗説を肖柏自身の書き物によって正した段である。俗には牡丹を詠んだ句が評判になったからだと言われていたが、肖柏の『三愛記』には、自ら牡丹花を名のったと書かれている。しかも身に似合わない名だと知りつつ、万物は一体だという道理を思ってのことかと、禅的な理由まで添えている。肖柏は宗祇の弟子で、宗長とともに『水無瀬三吟百韻』を詠んだことで知られる。人の名や号の由来は、周りの人のもっともらしい話より、本人の言葉に当たるのが確かである。噂や通説を一次資料で確かめるという、宣長の考証の基本がここにも表れている。
関連する章句
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