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玉勝間 / 三の巻 後柏原天皇崩御御入棺の儀

同記云、大永六年四月十一日、天晴、戌刻有御入棺事、(御棺從雲龍院沙汰也。)先之有御沐浴儀云云(爲僧衆沙汰之間、不奉見。)範久朝臣取御服(御直衣御袴御袷御念珠御血脉等、各居御菌、)一一授之、(御冠御枕、自本副玉體。)等授長老、(泉涌寺)長老取奉入御棺與。如此儀、一圓爲僧衆行事之間、不見之、頃之事調之由示之、仍催御膳之事。頭辨資定朝臣參進、供御膳。(先之橋以結置案二脚於御前、備御膳料也。)菅少納言長淳(衣冠)役送、五前次第、(第一第二御飯、第三、第四、第五菓子、)供了即撤之、此後供御手水。(根手洗御手揮等、以緒持參、)授長淳、資定朝臣先取御手洗、置御前、(北面也、先例以西南爲御前歟、然而此記録所、御座分只一間也、爲狹少之間、爲北面、)立御屏風、次取橡(兼撤蓋、)入水、(二三度、其由許也、)次取御手拭、懸御手洗端、則撒之、長淳取之、授以〓云云。

新字:同記云、大永六年四月十一日、天晴、戌刻有御入棺事、(御棺従雲竜院沙汰也。)先之有御沐浴儀云云(為僧衆沙汰之間、不奉見。)範久朝臣取御服(御直衣御袴御袷御念珠御血脉等、各居御菌、)一一授之、(御冠御枕、自本副玉体。)等授長老、(泉涌寺)長老取奉入御棺与。如此儀、一円為僧衆行事之間、不見之、頃之事調之由示之、仍催御膳之事。頭弁資定朝臣参進、供御膳。(先之橋以結置案二脚於御前、備御膳料也。)菅少納言長淳(衣冠)役送、五前次第、(第一第二御飯、第三、第四、第五菓子、)供了即撤之、此後供御手水。(根手洗御手揮等、以緒持参、)授長淳、資定朝臣先取御手洗、置御前、(北面也、先例以西南為御前歟、然而此記録所、御座分只一間也、為狭少之間、為北面、)立御屏風、次取橡(兼撤蓋、)入水、(二三度、其由許也、)次取御手拭、懸御手洗端、則撒之、長淳取之、授以〓云云。

書き下し

同記に云う、大永六年四月十一日、天晴る、戌の刻御入棺の事有り、(御棺は雲龍院より沙汰するなり。)是より先に御沐浴の儀有り云云(僧衆の沙汰たるの間、見奉らず。)範久朝臣御服を取り(御直衣・御袴・御袷・御念珠・御血脉等、各御菌に居う、)一一之を授く、(御冠・御枕は、本より玉体に副う。)等長老に授く、(泉涌寺)長老取りて御棺に入れ奉る与。此の如き儀、一円に僧衆の行事たるの間、之を見ず、頃くして事調うるの由之を示す、仍て御膳の事を催す。頭弁資定朝臣参進し、御膳を供す。(是より先に橋以て案二脚を御前に結い置き、御膳の料に備うるなり。)菅少納言長淳(衣冠)役送す、五前次第、(第一第二御飯、第三、第四、第五菓子、)供し了りて即ち之を撤す、此の後御手水を供す。(根手洗・御手揮等、緒を以て持参す、)長淳に授く、資定朝臣先ず御手洗を取り、御前に置く、(北面なり、先例は西南を以て御前と為すか、然れども此の記録所、御座分只一間なり、狭少たるの間、北面と為す、)御屏風を立つ、次に橡を取り(兼ねて蓋を撤す、)水を入る、(二三度、其の由ばかりなり、)次に御手拭を取り、御手洗の端に懸け、則ち之を撒す、長淳之を取り、授くるに〓を以てす云云。

現代語訳

同じ『二水記』に次のようにある。「大永六年四月十一日、晴れ。戌の刻に御入棺のことがあった(御棺は雲龍院の手配である)。これより先に御沐浴の儀があった云々(僧たちの取り計らいなので、拝見しなかった)。範久朝臣が御服を取り(御直衣・御袴・御袷・御念珠・御血脈などを、それぞれ箱に据えて)一つ一つ手渡し(御冠と御枕はもとから御遺体に添えてある)、それらを長老(泉涌寺の長老)に授け、長老が取って御棺にお入れ申し上げた。このような儀式は、すべて僧たちの行う事なので見なかった。しばらくして事が整ったと知らせがあったので、御膳の支度を促した。頭弁の資定朝臣が進み出て御膳を供えた(これより先に、案(机)二脚を御前に結い置いて、御膳を載せる用意としてあった)。菅少納言長淳(衣冠姿)が運び役を務め、五つの膳を順に(第一・第二は御飯、第三、第四、第五は菓子)供え終えるとすぐに下げた。この後に御手水を供えた(手洗いの器・御手拭などは紐で結んで持参した)。長淳に授け、資定朝臣がまず御手洗の器を取って御前に置いた(北向きである。先例では西南を御前とするのだろうか。しかしこの記録所は御座の分がただ一間で狭いので北向きとした)。御屏風を立て、次に水差しを取り(あらかじめ蓋を外しておく)水を注ぎ(二、三度、その形だけである)、次に御手拭を取って御手洗の端に掛け、すぐにこれを下げた。長淳がこれを受け取り、授けた云々」。

解説

大永六年(1526)四月に崩じた後柏原天皇の入棺の儀を、公家の鷲尾隆康が書き留めた記事である。沐浴や納棺そのものは泉涌寺の僧たちが執り行い、公家は「見奉らず」と外にいる。公家が担うのは、御遺体に食膳や手水を生前と同じように供える儀礼である。死後も天皇に日々の奉仕を続けるという考えが、儀式の段取りに表れている。戦国期の朝廷は財政が窮乏し、後柏原天皇は即位の式を挙げるまで二十年以上待たされたことで知られる。その葬送の細部が、同時代の公家の筆で残っていることになる。宣長が長い漢文をそのまま写したのは、天皇の葬送が仏教の僧の手に委ねられていた実態を、確かな記録で示しておきたかったからだろう。古の姿との隔たりを見る材料である。

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