玉勝間 / 一の巻 四条天皇御諡のさだ
同記云、仁治三年正月十九日、先帝御諡號之事、群臣議定、或申四條院、或申後六條院、或申五條院、或申後鳥羽院、云云、四條者、可被移御喪所於右大將亭(三條西洞院)四町之内也、可有其寄歟云、
新字:同記云、仁治三年正月十九日、先帝御諡号之事、群臣議定、或申四条院、或申後六条院、或申五条院、或申後鳥羽院、云云、四条者、可被移御喪所於右大将亭(三条西洞院)四町之内也、可有其寄歟云、
書き下し
同記に云う、仁治三年正月十九日、先帝御諡号の事、群臣議定す、或いは四条院と申し、或いは後六条院と申し、或いは五条院と申し、或いは後鳥羽院と申す、云々、四条は、御喪所を右大将の亭(三条西洞院)に移さるべし、四町の内なり、其の寄せ有るべきかと云う、
現代語訳
同じ日記にこうある。「仁治三年正月十九日。先帝の御諡号(おくりな)のことを群臣が議定した。ある者は四条院と申し、ある者は後六条院と申し、ある者は五条院と申し、ある者は後鳥羽院と申した。四条というのは、御喪所を右大将の屋敷(三条西洞院)に移されることになっており、四町の内であるから、そのゆかりがあるべきか、という。」
解説
四条天皇という追号がどのように決まったかを、平戸記から抜き出した段である。天皇の死後、群臣が集まって四条院・後六条院・五条院などの案を出し合った。四条の案には、御喪所を移す右大将の屋敷(三条西洞院)が「四町の内」にあるので、そのゆかりがあろう、という理由が添えられている。平安中期以降、天皇の追号は御所や陵のある地名から取ることが多く、その実際の決め方が、この記事から具体的に分かる。宣長はこうした記事を、有職故実の資料として丹念に拾った。今では当たり前に呼ばれている名にも、誰かが案を出し合い、理由をつけて選んだ過程がある。名の由来を知ると、歴史の見え方が少し変わってくる。
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
-
『玉勝間』四の巻 天皇御院号の事土御門の内大臣通親公の、高倉院升遐の記に云わく、そのゆうべ、六はらより清閑寺にうつし奉る。殿上にてまづ後の御名の定めあるにつけても、高倉いかなる大路にて、うき名の御かたみに残り云々、と有り。後陽成天皇、元和三年八月二十六日にかくれさせ給いて、御はふりの事、日を択ばれて、九月二十日とさだまる。そのほどは、もとの御所におわしまして、御前僧夜もすがら、ひそかに法華経を読む。朝には御手洗まいり、御膳など常のごとく奉る。御院号の事、家々へ仰せられたる中に、殿下よりかむかえて奉り給えるに定められて、後陽成院と号し奉り、二十日に泉涌寺にして火葬し奉る。この御事、御ここちのほどより、御はふりまで、西洞院の時慶の卿の書かれたる、升遐の記に見えたり。
-
『玉勝間』一の巻 服ぬぎの次第同記に云う、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿、四条院の御服を除かしめ給うと云々、川原に於いて除かしめ給うべきの処、御蚊触の事出で来たり、御減有りと雖も、忽ち御河原の条、如何の由、医師計り申すの間、只門外に出ずるなり、吉服の御直衣を召し、御車に駕し、門外に出で、吉方に向かいて、除かしめ給うなり、政所先日の御帯を献ず、是より先に吉服の御装束を召し、御車に駕せしめ給う、其の後御帯を献ず、(伝え乱るるの人之を聞かず、尋ぬべし、)之を召し一結にて之を給う、(或る説、除服の時、また之を召さずと云う、吉方を忌むか、体尋ぬべし、)鈍色の御直衣一襲、陰陽師の前に置く、御車吉方に向け、榻を立て、次に禊を修す、次に家司兼〓朝臣〓〓大麻を伝え、便ち御贖物を撤し、陰陽師御帯を切り、河原に遣わして流し棄つるなり。
-
『玉勝間』一の巻 平戸記平戸記にいわく、仁治三年正月十六日云々、凡そ空位数日に及ぶ、偏に是れ関東の所為なり、十七日云々、阿波院の宮、武士の縁に依りて、一定御出立の由、世以て風聞す、前内府(定通公)の妻、使縁者、泰時・重時等の姉妹なり、此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと云う、十九日云々、巷説に云う、関東の飛脚、此の申の剋許りに武家に著くと云う、此の由を以て且つ一条殿に申すと云う、是に依りて京中物念と云う、抑も此の事、関東計らい申すの条、末世の至りと知ると雖も、極めて悲しむべし悲しむべし、十善の帝位の運、更に凡夫愚賤の思う所に非ず、而るに時儀に順わしめ給うに依るか、一旦仰せ合わせらると雖も、〓凡卑の下愚を以て、帝位を計り立つるの条、未曾有の事なり、我が朝は神国なり、異域の風に似ず、茲の天地開くより後、国常立尊以降、皆先主計り立てしめ給う、不慮の事に至りては、此の限りに非ず、光仁・光孝二代に至りては、群臣議定するか、然れども其の趣、偏に天下を安んぜんが為なり、今群議に非ず、異域蛮類の身を以て此の事を計り申すの条、宗廟の冥慮如何、尤も恐るべし恐るべし。またいわく、寛元三年二月十日云々、神事興行の事、祈年・祈年穀・月次祭已下、諸社の祭礼等、皆起行の儀有るべくば、先ず幣物・〓物・庭積等、今に於いては実無きなり、皆悉く尋ね沙汰有るべし、而るに件の事等、末代に臨みて治め難きか、式数を守るべくば、その物今
-
『玉勝間』九の巻 后妃内親王など院号の事同書に、応保元年、十二月十六日、無品内親王(障子)を以て八条院と為す、伊通公の申状に、帝王の養母の儀、元延喜より始まる事なり、所謂温子(九条殿の女)なり、貴くして皇太后と為す、寛平法皇先例無しと申さしめ、仍りて然るべからざるの由給う、然れども例に依るべからず、母儀を存ぜしめ給うの由、之を仰せらる、女院は東三条院より始まる、院号は后より貴きか、将た賤しきかの由、法家に問わるべし、小一条院は、元東宮なり、而るに院号の後、三宮の下たるべきの由宣下す、太上天皇は別なり、只の院号は、更に后位より貴かるべからざる事なり。
-
『玉勝間』八の巻 後鳥羽ノ天皇ノ御諱のよみ後鳥羽の天皇の御諱尊成、歴代編年集成に、タカヒラと仮字附け有り。成、平なりと云う事なるべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る