玉勝間 / 十の巻 連歌の花ノ下と云ふこと
菟玖波集ノ序に吉野ひじりのみかども、撰集に加へ、家家の道をえたる人も、式目をつくりて、久しく雲のうへのもてあそび花のもとのたはふれとなれりと有。連歌の家に、花ノ下と云ふ稱あるは、此詞をとれるなるべし。
新字:菟玖波集ノ序に吉野ひじりのみかども、撰集に加へ、家家の道をえたる人も、式目をつくりて、久しく雲のうへのもてあそび花のもとのたはふれとなれりと有。連歌の家に、花ノ下と云ふ称あるは、此詞をとれるなるべし。
書き下し
菟玖波集の序に吉野ひじりのみかども、撰集に加え、家々の道をえたる人も、式目をつくりて、久しく雲のうえのもてあそび花のもとのたわぶれとなれりと有る。連歌の家に、花の下と云う称あるは、この詞をとれるなるべし。
現代語訳
菟玖波集の序に、「吉野の聖の帝も撰集に加えられ、それぞれの家でこの道を修めた人も式目を作って、長く宮中の慰み、花の下の遊びとなった」とある。連歌の家に「花の下(はなのもと)」という称号があるのは、この言葉を取ったのであろう。
解説
連歌の宗匠を「花の下」と呼ぶ称号の由来を考えた段である。南北朝時代に二条良基が撰んだ連歌集菟玖波集の序に、連歌が撰集に加えられ、家々の達人が式目(連歌の規則)を定めて、長く「雲の上のもてあそび、花のもとのたわぶれ」となった、とある。宣長は、連歌の家に「花の下」の称があるのは、この序の言葉から取ったのだろうと推す。花の下連歌は、もともと鎌倉時代から寺社の桜の下で身分を問わず人々が集まって詠んだ連歌の催しで、その名手が「花の下」と呼ばれたともいわれる。宣長の推測は一つの説にとどまるが、称号の由来を文献の言葉に求めて確かめようとする姿勢は変わらない。多くの人が句をつなぐ座の文芸である連歌の歴史が、一つの呼び名の中にたたみ込まれている。
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 柿の本栗の本二条の良基公の、さよのねざめと云う物にいわく、後鳥羽の院の御代には、善き連歌の上手をば、柿の本の衆となづけられ、悪ろき連歌をば、栗の本の衆と、なづけられ侍りき。
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『玉勝間』四の巻 歌人また家集と云ふ事歌詠む人を歌人と云う事、拾遺集十七の巻に、三条の太政大臣の家にて、歌人召し集めて、あまたの題詠ませ侍りけるにとあり。また家の集と云うこと、古今集の真字序に見え、拾遺集同じ巻に、天暦の御時、伊勢が家の集召したりければ云々、また二十の巻に、家集に書きて侍ると見え、源の順の集に、平の兼盛が家の集など有り。類聚国史に、菅原の是善の卿の事に、家集十巻とあり、これは詩文の集なり。
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