玉勝間 / 十三の巻 金葉集に輔仁親王を三ノ宮としるせる事
同書に、金葉集に、輔仁のみこと書たりければ、白河ノ院は、いかにここに見むほど、かくは書たるぞと仰られければ、三ノ宮とぞかき奉れると有リ。かの親王は、白河ノ帝の御子にましますが故に、御名を書キ奉ることは、憚るべき事ぞと思しめして、斯くはのたまへるなり。
書き下し
同書に、金葉集に、輔仁のみこと書きたりければ、白河の院は、いかにここに見むほど、かくは書きたるぞと仰せられければ、三の宮とぞかき奉れると有り。かの親王は、白河の帝の御子にましますが故に、御名を書き奉ることは、憚るべき事ぞと思しめして、かくはのたまえるなり。
現代語訳
同じ書(今鏡)に、「『金葉集』に『輔仁のみこ』と書いてあったので、白河院が『私がここで見るというのに、どうしてこのように書いたのか』と仰せになったので、『三の宮』とお書き申し上げた」とある。あの親王は白河天皇の御子(弟とも)でいらっしゃるので、御名を書き申し上げることは憚るべきことだとお思いになって、このようにおっしゃったのである。
解説
勅撰集『金葉集』の撰進のとき、輔仁親王を実名で記したことを白河院がとがめ、「三の宮」と書き改めさせたという逸話を引いた段である。宣長は、親王の実名を書くのは院の面前では憚りがあったからだと説明する。なお輔仁親王は実際には後三条天皇の第三皇子で、白河天皇の異母弟にあたり、本文の「御子」は宣長の思い違いか伝えの揺れと見られる。いずれにせよ、貴人を実名で呼ばず、身位や順序で呼ぶ慣わしは、平城天皇の諱の段とも通じる。名前を呼ぶことが相手への礼や力関係と結びついていた時代の感覚を示す記録である。今日でも肩書や敬称で呼ぶことには、同じような心づかいが残っている。
関連する章句
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