玉勝間 / 十三の巻 伏見の会
續世繼に、橘ノ俊綱ノ朝臣の、伏見の住ひの事を云へる所にいはく。伏見にては、時の歌よみどもつどへて、和歌の會たゆるよなかりけり。伏見の會とて、いくらともなくつもりてなんあなると有り。俊綱ノ朝臣は、宇治ノ關白殿の御子なり。いくらともなくつもりてと云へるは、歌合の歌を集めたる物をも、歌合と云ふ如く、その會の時の歌どもを、書キ集めたる物を、伏見の會と云へるにや。
新字:続世継に、橘ノ俊綱ノ朝臣の、伏見の住ひの事を云へる所にいはく。伏見にては、時の歌よみどもつどへて、和歌の会たゆるよなかりけり。伏見の会とて、いくらともなくつもりてなんあなると有り。俊綱ノ朝臣は、宇治ノ関白殿の御子なり。いくらともなくつもりてと云へるは、歌合の歌を集めたる物をも、歌合と云ふ如く、その会の時の歌どもを、書キ集めたる物を、伏見の会と云へるにや。
書き下し
続世継に、橘の俊綱の朝臣の、伏見の住まいの事を云える所にいわく。伏見にては、時の歌よみどもつどえて、和歌の会たゆるよなかりけり。伏見の会とて、いくらともなくつもりてなんあなると有り。俊綱の朝臣は、宇治の関白殿の御子なり。いくらともなくつもりてと云えるは、歌合の歌を集めたる物をも、歌合と云う如く、その会の時の歌どもを、書き集めたる物を、伏見の会と云えるにや。
現代語訳
『続世継』(今鏡)に、橘俊綱朝臣の伏見の住まいのことを述べたところに、こう言う。「伏見では当時の歌人たちを集めて、和歌の会の絶える夜はなかった。『伏見の会』といって、数え切れないほど積もっているということだ」とある。俊綱朝臣は宇治の関白殿(藤原頼通)の御子である。「数え切れないほど積もって」と言っているのは、歌合の歌を集めたものをも「歌合」と言うように、その会の時の歌々を書き集めたものを「伏見の会」と言ったのであろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 歌合よみ人の名をかくす事同書に、法性寺殿(忠通公)の御事を云えるところに、まだおさなくおわしましし時より、歌合など朝ゆうの御あそびにて、基俊・俊頼など云う、時の歌詠みどもに、名かくして判せさせなど、せさせ給う事、たえざりけり、と云えり。名かくすとは、詠み人の名か、判者の名か。
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『玉勝間』十の巻 歌会同じ記に云う、嘉吉二年九月十八日、今日冷泉中将持和朝臣の宿所に参る、(近衛室町の辺なり)去月この宿所に移住す云々。一盞分撓し、之より雑談に及ぶ。和歌の懐紙の書き様、また会の座に懐紙を置く様、講師已下の条々の作法、具に之を口伝せらる、記録に遑あらざる者なり、云々。同日今夜、飯尾新左衛門尉為数の亭にて和歌会なり、云々。常光院大僧都堯孝題を出すなり。今夜読師たり。蜷川新右衛門入道智蘊講師たり、云々。今夜新右衛門講師の時、堯孝が短冊には、大僧都とよめり。懐紙もまた之に同じ、その外は皆実名、官途実名なり。聊か思惟有るべきか、如何。実名の中、ちと然るべきの輩、微音なり。その験有り、愚存もまたかくの如し。先ず懐紙を講じて後、次に短冊を披講す。
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『玉勝間』一の巻 歌の御会のめぐらし文甘露寺権大納言元長卿記に云う、永正五年正月十四日、和哥御会の廻文を書き、釜殿を以て之を遣わす、鷺に慶音有り、右の御題、来る十九日披講有るべし、予参せしめ給うべき由、仰せ下され候なり、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(この所同じつらに廿三人の名あり)袖書に尅限は午の一点たるべきなり、丞相には別紙の折紙を以て之を相触る。
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『玉勝間』十の巻 連歌の花ノ下と云ふこと菟玖波集の序に吉野ひじりのみかども、撰集に加え、家々の道をえたる人も、式目をつくりて、久しく雲のうえのもてあそび花のもとのたわぶれとなれりと有る。連歌の家に、花の下と云う称あるは、この詞をとれるなるべし。
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『玉勝間』四の巻 歌人また家集と云ふ事歌詠む人を歌人と云う事、拾遺集十七の巻に、三条の太政大臣の家にて、歌人召し集めて、あまたの題詠ませ侍りけるにとあり。また家の集と云うこと、古今集の真字序に見え、拾遺集同じ巻に、天暦の御時、伊勢が家の集召したりければ云々、また二十の巻に、家集に書きて侍ると見え、源の順の集に、平の兼盛が家の集など有り。類聚国史に、菅原の是善の卿の事に、家集十巻とあり、これは詩文の集なり。
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『玉勝間』十三の巻 歌合と云ふ事のはじまり歌合と云うわざは、いずれの御世の頃よりかはじまりけむ。古今集に、仁和の中将の御息所の家の歌合と云うこと見え、新勅撰集夏の部に、中納言行平の家のうた合、又恋三に、陽成院の歌合など見えたり。これら寛平よりさきなり。
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