玉勝間 / 一の巻 鎌倉右大臣の名みかどより給へる事
愚管抄に云はく、千萬御前、元服せさせて、實朝と云ふ名も、京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて將軍宣下申ッくだして云云。
新字:愚管抄に云はく、千万御前、元服せさせて、実朝と云ふ名も、京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣下申ッくだして云云。
書き下し
愚管抄に云わく、千万御前、元服せさせて、実朝と云う名も、京より給わりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣下申しくだして云々。
現代語訳
愚管抄にこうある。「千万御前を元服させて、実朝という名も京から賜って、建仁三年十二月八日、そのまま将軍の宣下を申し下して……。」
解説
鎌倉三代将軍源実朝の名が、京の朝廷から与えられたものだと示す愚管抄の一文を引いた段である。愚管抄は慈円が著した歴史書で、同時代の証言として重みがある。幼名千万(千幡)と呼ばれた少年が元服し、実朝という名も京から賜り、将軍の宣下を受けた。武家の棟梁の名が朝廷から授けられたという事実は、鎌倉幕府の将軍もまた朝廷の任命によって立つ存在であったことを示している。宣長は題にわざわざ「みかどより給へる」と記し、武家の世にあっても名分の源が朝廷にあったことを書き留めた。実朝は京の文化を慕い、のちに金槐和歌集を残した歌人でもある。名づけの一事から、政治の秩序の筋目が見えてくる。
関連する章句
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