玉勝間 / 十三の巻 右兵衛馬場
北山抄に、右兵衞ノ馬塲と云ふも見えたれば、右近ノ馬塲のみならず、六衛府みな、おのおのその馬塲有しなり。
新字:北山抄に、右兵衛ノ馬塲と云ふも見えたれば、右近ノ馬塲のみならず、六衛府みな、おのおのその馬塲有しなり。
書き下し
北山抄に、右兵衛の馬場と云うも見えたれば、右近の馬場のみならず、六衛府みな、おのおのその馬場有りしなり。
現代語訳
『北山抄』(藤原公任の著した儀式書)に「右兵衛の馬場」というものも見えているので、右近衛の馬場だけでなく、六衛府(左右の近衛・兵衛・衛門)はみな、それぞれに自分の馬場を持っていたのである。
解説
平安京の宮廷警護を担った六衛府が、それぞれ馬場を持っていたことを、『北山抄』の一語から推した短い段である。右近の馬場は、『伊勢物語』や『源氏物語』にも騎射の見物の場として登場し、京の北野のあたりにあったことで名高い。宣長は、右兵衛の馬場という記述を見つけ、右近だけが特別に馬場を持っていたのではなく、六衛府すべてに備わっていたのだろうと考える。一つの用例から制度の全体像を推し量るのは有職故実の考証の基本である。有名なものだけが存在したと思い込まず、名の残らなかった同類にも目を向けるという点で、この小さな覚え書きには宣長の考え方がよく表れている。記録に残りやすいものと実際にあったものの差を意識させる段である。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 右近ノ馬場のひをりの日の事古今集の詞書、また伊勢物語に、右近の馬場のひおりの日云云と有る、こはいといとかたき事として、昔の物知り人たちも、とりどりに云えることなれど、いずれも心得ぬこと有り。それが中に、ひおりと云う称は、顕昭の袖中抄に、真手番の日は、射手の近衛舎人、褐の尻を、前さまに引きたおりて、まえにはさむ故に云う、と云えるぞ、さもと聞えたる。されどその真手番と云える、五日六日の騎射は、師の考えのごとく、大内の馬場にてこそあれ、その日左右近衛の馬場にて有る事は、いずれの書にも見えざれば、右近の馬場のその日とは、いずれの日を云うならむ、さだかならず。さて又師の考えには、ひおりを、引柵または標柵ならん、と云われつれど、馬場の埒を、ひおりと云える事、物にも見えず、又然か云うべくも思われず。まして標をひと云える事も無し。又標を立つればとて、その日を標柵の日とは云うべくも有らざれば、この説も二つともに取りがたし。かにかくにこの事は、まことに難義にぞ有りける。
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『玉勝間』十一の巻 如意と云ふものをとる事北山抄の、釈奠の又の日、明経論義のところに、博士の如意を執る事見えたり。皇朝にても、儒のかたにては、さること有りしなり。
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『玉勝間』八の巻 八的同じ記に、寛弘二年五月十四日辛酉、早旦、資平左府より来たりて云う、昨馬場に出ず、左右近各三人、又三兵、次に廐の馬を馳せしめ、次に八的を射しむ。
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『玉勝間』六の巻 客殿吉部秘訓抄に、文治二、正、十、同記に云う、大夫史広房入り来る、先ず中門の外に立つ、予客殿に出ず、とあり。客殿と云うこと、その頃も有りしなり。
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