神皇正統記 / 巻四 第五十一代 平城天皇
第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、其弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおまし〳〵き。
書き下し
第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、其弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおましましき。
現代語訳
第五十一代、平城天皇は桓武天皇の第一皇子である。母は皇太后藤原乙牟漏(おとむろ)で、贈太政大臣藤原良継の娘である。丙戌の年(八〇六年)に即位し、改元した。平安宮にお住まいになった。天下を治められたこと四年。皇太弟に位を譲って太上天皇と申し上げた。旧都の平城京に帰ってお住まいになった。尚侍(ないしのかみ)藤原薬子を寵愛しておられたところ、その兄弟である参議右兵衛督藤原仲成らが勧めて、反乱の企てが起こった。坂上田村麻呂を大将軍として追討させたところ、平城上皇の軍は敗れ、上皇は出家なさった。上皇の皇子で皇太子であった高岳親王も廃されて同じく出家し、弘法大師の弟子になった。真如親王と申すのはこの方である。薬子・仲成らは誅殺された。上皇は五十一歳まで存命であった。
解説
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