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玉勝間 / 七の巻 女御多子名字のさだ

同別記、久安四年、賴長公の養女、入內によりて、名字を撰ばるるところに云はく、御名字勘文拜見、返上之、愚案之所及、多子優候歟、名字多、可用平聲云云、又親王並婦人名、訓未慥之字不用云云、是出公御前、不可讀聲、可讀訓之故云云、而近代、間訓不慥字等見候、如何、就中多字、万佐留云訓候歟、彌神妙覺候、子細只今參入、可令言上候之狀如件、八月七日、大外記中原師安(請文)と有り。名字とは、ただ名のことなり。

新字:同別記、久安四年、頼長公の養女、入内によりて、名字を撰ばるるところに云はく、御名字勘文拝見、返上之、愚案之所及、多子優候歟、名字多、可用平声云云、又親王並婦人名、訓未慥之字不用云云、是出公御前、不可読声、可読訓之故云云、而近代、間訓不慥字等見候、如何、就中多字、万佐留云訓候歟、弥神妙覚候、子細只今参入、可令言上候之状如件、八月七日、大外記中原師安(請文)と有り。名字とは、ただ名のことなり。

書き下し

同別記、久安四年、頼長公の養女、入内によりて、名字を撰ばるるところに云わく、御名字の勘文拝見し、之を返上す、愚案の及ぶ所、多子優れ候か、名字の多きは、平声を用うべしと云々、また親王並びに婦人の名は、訓の未だ慥かならざるの字は用いずと云々、これ公の御前に出でて、声を読むべからず、訓を読むべきの故なりと云々、而るに近代、間訓の慥かならざる字等見え候、如何、なかんずく多の字、まさると云う訓候か、いよいよ神妙に覚え候、子細は只今参入して、言上せしむべく候の状件のごとし、八月七日、大外記中原師安(請文)と有り。名字とは、ただ名のことなり。

現代語訳

同じ台記の別記に、久安四年、頼長公の養女が入内するにあたって、名を選ばれるところに次のようにある。「御名の候補を記した勘文を拝見し、お返しする。私の考えの及ぶところでは、『多子』がすぐれていようか。名の字は平声(ひょうしょう)のものを用いるべきだという。また親王や婦人の名には、訓みの確かでない字は用いないという。これは、公の御前に出たときに、字音で読むのではなく、訓で読むべきだからだという。しかし近ごろは、ときに訓みの確かでない字なども見られるが、いかがなものか。とりわけ『多』の字には『まさる』という訓があろうか。いよいよ結構なことと思われる。詳しいことは、ただいま参上して申し上げる。以上のとおりである。八月七日、大外記中原師安(請文)」。「名字」とは、ただ名のことである。

解説

藤原頼長の養女が近衛天皇に入内する際、その名を選んだ経緯を台記の別記から書き抜いた段である。儒者の中原師安が候補を検討し、「多子(まさるこ)」を推している。名に用いる字は平声、すなわち平らな声調の字がよいこと、親王や女性の名には訓の確かでない字を避けること、御前では字を音ではなく訓で読むからであることなど、名づけの作法が具体的に述べられる。「多」に「まさる」の訓があるのはめでたい、と結んでいる。多子はのちに近衛・二条の二代の天皇の后となった人である。名前一つに、漢字の声調、訓の確かさ、読まれる場面までを考え合わせる。宣長は最後に、ここで言う「名字」は今の苗字ではなく名のことだと注意している。言葉の意味が時代で変わることへの目配りが、ここにも生きている。

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