玉勝間 / 十三の巻 梅の花の歌に香をよむ事
梅ノ花の歌には、香をむねと詠む事なれども、萬葉集には、梅の歌いと多かるに、香を詠めるは、ただ廿の卷に、うめの花香をかぐはしみ、遠けども心もしぬに君をしぞ思ふ、とある一ッのみにて、これをおきては、見えず。古へはすべて香をめづる事は無かりしなり。橘の歌も、萬葉にいと多けれども、それも香を詠めるは、十七の卷と十八の卷とに、唯だ二首あるのみなり。其外十の卷に、茸を詠める歌、高圓の此峰もせに笠たてて、みちさかりなる秋の香のよさ、と詠めるなどより外には、すべて物の香をめでたる歌は見えず。にほひと多く詠めるは、みな色のにほひにて、鼻にかがるる香にはあらず。さて件の十の卷なる歌は、松茸を詠めるにぞ有ける。はしに詠芳とある、芳ノ字は、茸を寫しひがめたるなり。
新字:梅ノ花の歌には、香をむねと詠む事なれども、万葉集には、梅の歌いと多かるに、香を詠めるは、ただ廿の巻に、うめの花香をかぐはしみ、遠けども心もしぬに君をしぞ思ふ、とある一ッのみにて、これをおきては、見えず。古へはすべて香をめづる事は無かりしなり。橘の歌も、万葉にいと多けれども、それも香を詠めるは、十七の巻と十八の巻とに、唯だ二首あるのみなり。其外十の巻に、茸を詠める歌、高円の此峰もせに笠たてて、みちさかりなる秋の香のよさ、と詠めるなどより外には、すべて物の香をめでたる歌は見えず。にほひと多く詠めるは、みな色のにほひにて、鼻にかがるる香にはあらず。さて件の十の巻なる歌は、松茸を詠めるにぞ有ける。はしに詠芳とある、芳ノ字は、茸を写しひがめたるなり。
書き下し
梅の花の歌には、香をむねと詠む事なれども、万葉集には、梅の歌いと多かるに、香を詠めるは、ただ廿の巻に、うめの花香をかぐわしみ、遠けども心もしぬに君をしぞ思う、とある一つのみにて、これをおきては、見えず。古えはすべて香をめずる事は無かりしなり。橘の歌も、万葉にいと多けれども、それも香を詠めるは、十七の巻と十八の巻とに、ただ二首あるのみなり。その外十の巻に、茸を詠める歌、高円のこの峰もせに笠立てて、みちさかりなる秋の香のよさ、と詠めるなどより外には、すべて物の香をめでたる歌は見えず。においと多く詠めるは、みな色のにおいにて、鼻にかがるる香にはあらず。さて件の十の巻なる歌は、松茸を詠めるにぞ有りける。はしに詠芳とある、芳の字は、茸を写しひがめたるなり。
現代語訳
梅の花の歌には香りを中心に詠むものだが、『万葉集』には梅の歌がたいへん多いのに、香りを詠んだのは、ただ巻二十に「梅の花の香りがかぐわしいので、遠く離れていても心もしおれるほどにあなたを思う」とある一首だけで、これを除いては見えない。古にはおよそ香りを愛でることはなかったのである。橘の歌も『万葉集』にたいへん多いけれども、それも香りを詠んだのは、巻十七と巻十八にただ二首あるだけである。そのほかには巻十の、茸を詠んだ歌の「高円のこの峰いっぱいに笠を立てて、満ち盛っている秋の香りのよさよ」と詠んだものなどを除いて、およそ物の香りを愛でた歌は見えない。「におい」と多く詠んでいるのは、みな色の美しさであって、鼻で嗅ぐ香りではない。さて、先の巻十の歌は、松茸を詠んだものであった。題詞に「詠芳」とある「芳」の字は、「茸」を写し誤ったものである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 又たとへ歌のやうたとえ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、譬えたる意あらわに知らるるように詠みたる物なり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、その詠みたる人は、譬えたる心を知るべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとえたる意はこまかには知れ難きが多し。されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、確かには云いがたき歌おおし。その心してとくべきなり。又万葉のたとえ歌は、その譬えたる草木鳥虫のうえの詞と、ただに恋のうえを云える詞とを、あいまじえて詠める多し。これ又心得おくべし。
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『玉勝間』七の巻 香をきくと云ふは俗言なる事香を聞くと云うは、もと漢言にて、古の詞にあらず。すべて物の香は、薫物などをも、かぐと云うぞ雅言にて、古今集の歌などにも、花たちばなの香をかげばと見え、源氏物語の梅枝の巻に、たき物どものおとりまさりを、兵部卿の宮の論め給うところにも、人々の心々に合わせ給える、深さ浅さを、かぎあわせ給えるに、などこそ見えたれ。聞くと云える事は、昔の書に見えたる事無し。今の世の人は、そをば知らで、香などをかぐと云わむは、いやしき詞のごと心得ためるはなかなかのひがことなり。聞くと云うぞ、俗言には有りける。
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『玉勝間』六の巻 花のさだめ花はさくら。桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐうべき物も無く、うき世のものとも思われず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり。大かた山ざくらと云う中にも、しなじなの有りて、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかわれる処有りて、またく同じきは無きようなり。また今の世に、桐がやつ八重一重など云うも、ようかわりて、いとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、あおやかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空清くはれたる日、日影のさすかたより見たるは、においこよなくて、おなじ花とも覚えぬまでなん。朝日はさらなり、夕ばえも。梅は紅梅、ひらけさしたる程ぞ、いとめでたきを、盛りになるままに、ようようしらけゆきて、見所無くなるこそ、いとくちおしけれ。さくらの咲ける頃までも、散る事知らで、むげに匂い無く、ねびれしぼみて、残りたるを見れば、げに有りて世の中は、何事も皆かくこそと、見る春ごとに、思い知らるかし。白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり。
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『玉勝間』六の巻 花のさだめ大かた梅の花は、ちいさき枝を、物にさして、近く見たるぞ、梢ながらよりは、まされる。桃の花は、あまた咲き続きたるを、遠く見たるはよし。近くては、鄙びたり。山吹、かきつばた、なでしこ、萩すすき、女郎花など、とりどりにめでたし。菊も、よき程につくろいたるこそよけれ。あまりうるわしく、したたかに造りなしたるは、中中にしな無くなつかしからず。つつじ、野山に多く咲きたるは、目覚むるここちす。かいどうと云う物、からめきて、こまやかにうるわしき花なり。そもそもかく云うは、皆おのが思う心にこそあれ、人はまた思う心ことなるべければ、一ようにさだむべきわざには有らず。また今ようの、世の人のもてはやすめる花どもも、世に多かるを、かぞえいでぬは、殊更めきたるようなれど、歌にも詠みたらず、古き物にも、見えたる事無きは、心のなしにや、なつかしからず覚ゆかし。されどそれはた、ひとようなるひが心にやあらむ。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。
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うひ山ぶみ・注[ム]みづからも古風の歌をまなびてよむべしおのづからの勢ヒにて、万葉に載れるころの歌にいたりては、みなかまへてよくよまんと、求めたる物にこそあれ、おのづからに出来たるは、いとすくなかるべし、万葉の歌すでに然るうへは、まして後世今の世には、よくよまんとかまふること、何かはとがむべき、これおのづからの勢ヒなれば、古風の歌をよまん人も、隨分に詞をえらびて、うるはしくよろしくよむべき也、万葉の歌の中にても云々、此集は、撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば、古ヘながらも、あしき歌も多し、善悪をわきまへて、よるべきなり、今の世、古風をよむともがらの、よみ出る歌を見るに、万葉の中にても、ことに耳なれぬ、あやしき詞をえり出つかひて、ひたすらにふるめかして、人の耳をおどろかさんとかまふるは、いといとよろしからぬこと也、歌も文も、しひてふるくせんとて、求め過たるは、かへすかへすうるさく、見ぐるしきものぞかし、万葉の中にても、たゞやすらかに、すがたよき歌を、手本として、詞もあやしきをば好むまじき也、
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